猫のパジャマと夜のスイッチ ――天の向こう側――
サーニャは水面に浮かんでいた。水面は星々の輝きを反射させ、夜空に浮かんでいるような感覚を彼女に味あわせていた。
その水面はミントティーのように温かく清涼な肌ざわりで、磯の香は風にゆられた白つめ草の青さがまじりあい彼女に春を感じさせていた。
空を見上げると上弦の月の僅か東、南の空には獅子座が浮かんでいた。
獅子座は春の夜空の覇者であり彼女の守護星座でもあった。
サーニャは自身の守護星座が好きではなかった。獅子座にまともな逸話などありはしない。
そこにあるのは勇者ヘラクレスに討伐された慢れる獅子の亡骸でしかなかった。
なんとも滑稽な事であろうか。まるで駄々を捏ねてる自分自身のなれの果てのように思われた。
上空3万メートルでの迎撃任務による重圧と、親友との口論が彼女を弱気にさせていた。
しかし神話とは別の視点で物を語るのであれば、獅子座もそれほど嫌いというわけでもなくなっていた事を思い出した。
サーニャは思わぬ人物にそれを教えられた。そんな記憶が甦った。
それはブリタニア基地での出来事。水浴び中ではなく、入浴中での出来事だった。
サーニャが去年の誕生日をむかえた数日後、サーニャとルッキーニは浴室にいた。
「サーニャは獅子座だったんだね、あたしは山羊座。
だけどあたしも獅子とかもっとかっちょいー星座のがよかったな」とルッキーニが言った。
ルッキーニもサーニャと同様に彼女自身の守護星座に不満を抱いていた。
不満の種は山羊座の風貌によるものだった。山羊座はユーモラスな神話を秘めていた。
むかしむかし天界の神々はナイル河の畔で宴を開いていた。その中に牧神パンはいた。
宴を楽しむ最中、彼らは怪物テュフォンに襲われる。神々はそれぞれ動物へと姿を変え方々に散った。
牧神パンもナイル河へと逃げ込んだのだが、あわてたパンはなんとも間抜けな格好へと変容した。
山羊の上半身に魚の下半身。それが山羊座の姿だった。
サーニャは不貞腐れているルッキーニに、牧神パンの人柄について語った。
牧神パンは悪戯好きであわてん坊、パンはパニックの語源でもある。
昼寝をこよなく愛し、愛嬌ある性格故に彼はすべての神々に愛されていた。
サーニャはこれを伝え「まるでルッキーニちゃんみたいだね」と最後に一言添えた。
だがこの逸話もルッキーニの掲げる獅子座至上主義の根底を覆すにはいたらなかった。
なによりも悪戯好きであわてん坊の節は蛇足であった。
「ロマーニャ人のあたしたちにとってはね、獅子は水の護り神なんだよ、知らなかった? ほら」とルッキーニはそう言いながら指をさした。
その先には獅子の頭部を模した石像があった。その口から溢れ出る水流が浴槽に潤いを満たしてした。
この獅子の頭部を模した蛇口は古代ロマーニャの遺跡であるカラカラ風呂にも見受けられ、
獅子が水の守り神としてロマーニャの人々に讃えられた名残であるそうだ。
元を辿ればこれは古代エジプトより伝わった風習で、
獅子座が天に昇るこの春の時期、ナイルの河が氾濫し豊穣をもたらす事に由来するらしかった。
サーニャはこの逸話を初めて知った。星々の神話については博学ではあったが、その土地ごとの民間伝承の知識は乏しかった。
獅子座は水の恵み、命の息吹を伝える星座であったのだ。
「もしかしたら私にも人々に明日を生きる希望を与える力があるのかな」と、その時サーニャは思った。
星座というものは古代メソポタミアで生まれた。そこで生まれた獅子座がエジプトを経てロマーニャでは水の護り神と崇めらた。
そしてブリタニアの地で扶桑式の浴室に鎮座している。
この星の物語のように皆が何かしら、どこかで誰かと、思わぬところで繋がっている。
そんな記憶をルッキーニの故郷、このロマーニャで甦らせていた。
サーニャは我に返る。ブリタニア基地の情景は、夜風とともに打ち寄せる潮騒によりかき消されていた。
いままで隣にその存在を感じていたルッキーニの面影が消えると、サーニャは思いもよらぬ喪失感を抱いた。
なぜだろう、こうして一人で星を眺めるのがこんなに淋しく思われるなんて。
いつからだろう、夜一人でいることがこんなにも不幸に感じるなんて。
そう、あの人に逢うまでは夜空の星々だけが友達と呼べる存在だった。
夜の闇を照らすものが月や星々の他にもあるという事をあの人は教えてくれた。
あの人は私に夜を照らしだすスイッチを与えてくれた。いいえ、あの人……、エイラこそが私を照らすスイッチそのもの。
エイラがもはや友達と呼ぶには収まりきらない存在になっている事をサーニャは気付いた。
私は飛びたい、エイラと一緒に。アフロディーテとエロスのように。サーニャは自身を神話の登場人物に重ね思いを馳せた。
アフロディーテとエロスは魚座の逸話に関する神々。魚座には美しい神話が秘められていた。
牧神パンが怪物テュフォンに襲われた時、美の女神アフロディーテと愛の神エロスもその宴の席にいた。
美の女神アフロディーテと愛の神エロスの二人はその姿を美しい魚へと変容し、ナイルの河へと逃げのびた。
そして二人はお互いの体をリボンで結んだ。決して離れ離れにならないようにと。
永遠に別れる事なく天界を泳ぎ続ける二匹の魚にサーニャはその思いを馳せた。
そしてなによりもこの魚座は大切なエイラの守護星座でもあったのだった。
サーニャは目前の夜空に魚座の姿を求め視線を走らせた。
上弦の月の更に西。秋の夜空は遥か地平線のそのまたむこう側だった。
私はあなたを追い掛ける あなたはそっと眠りつく
あなたが朝日を浴びる頃 私は疲れて眠りつく
二人の星は出会えない
「ねぇ、どうすればいいの?」
サーニャは天上の月に向って問い掛けた。
サーニャの元に月から天使が舞い降りた。
天使は飛び込みに失敗したらしく、つぶれたカエルのようにお腹をさすっていた。ハルトマンだった。
ハルトマンが水浴びをしにきたと言うには多少語弊があった。彼女がここにいる理由はサーニャを気遣っての他なかった。
サーニャがエイラとの喧嘩について述べるとハルトマンは「へぇーそんな事があったんだー」と言った。
大体予想通りだなと思いつつもそう発した。
「で、さーにゃんはどうしたいんだい?」とハルトマンは問い掛けた。
一瞬時が止まった。酷な質問だったかな。ほんとは答え、もう出てるんだよね?
「任務じゃ……仕方ないか」戸惑うサーニャをみかね、ハルトマンは現状を受け入れさせる方向へとその手法をかえた。
だってさエイラのヘタレ癖が原因でしょ?
あれに関しちゃこの私にもどーすることもできないわ、ごめんさーにゃん。
納得してくれ……たかな? まあ、なんとかなるって。とハルトマンは開き直った。
それから二人は春の夜空を眺めた。サーニャが一人で眺めていてもつまらないからと言うとハルトマンは何も言わずに付き合った。
サーニャの星空解説はハルトマンの興味を全くそそらなかったが、
サーニャの抑揚に合わせハルトマンは「すごーい」と声を上げ、できるだけ喜びを共有しようと努力した。。
「牡羊座は太陽の真裏の位置で、今は見ることができないの」と聞かされると、
これに関しては「ちぇーつまんないー」と正直に感想を述べた。
そして「魚座の人ってね、とってもロマンチストなの」と聞かされた時には
「あのトゥルーデが?」とリリカルなバルクホルンを想像し笑い転げて溺れかけた。
それを見ていたサーニャの顔に笑みが戻ったのを確認すると、ハルトマンは「命を賭けたかいはあったね」とひとりごちた。
サーニャは今、高度3万メートルという天空の地にいた。
そして、その背中に秋の星空を感じていた。実際に見えているわけではない。ただ感じていた。
高度3万メートルの地平線に横たう天の川は、西に沈みかける鷲座のアルタイルを起点とし、
北のカシオペヤを跨いでは、いま顔を覗かせたばかりの上弦の月明かりの中へと没していった。
その星々の配置がサーニャの背中、太陽の向こう側に秋の夜空を描かせていた。
いるか座
山羊座
水瓶座
みなみのうお座
魚座
くじら座
エリダヌス座
これら水にかかわる星座が列なる領域。天界の海と呼ばれる領域だった。
サーニャはルッキーニに獅子が水の護り神だと教わってから、神話以外の星々の知識についても独学で習得していた。
紀元前3000年頃、古代メソポタミアの人々はそこに水にかかわる星座を思い描き配置した。
それは薄暗とした空間が海の静けさを連想させるからではなく、
このひめやかな星々が雨季の到来を告げる命の息吹にあふれた光であったからだ。
私は大事なことを忘れていた。獅子座と魚座、たとえ出会う事はなくとも、この二つの星座は思わぬところで繋がっていた。
獅子座も魚座も共に命の息吹を伝える星座であったのだとサーニャは思い出していた。
自分を守護する獅子のS字はこの惑星の向う側、大切なこの人を守護する双魚のV字は太陽に照らされ共に見えなかった。
その代わり眼下に見下ろす水の惑星上に、多くの生命の息吹を感じていた。
そして自分の瞳には大切なその人の姿がはっきりと映っていた。
エイラはここに来てくれた。私たち二人はここにいる。文字通りたくさんの仲間の力を借りて。
サーニャは先日のハルトマンの言葉を思い出す。
「で、さーにゃんはどうしたいんだい?」
自分はどうしたいのか。今ならこの疑問に答えを出せる気がしていた。
私たちウィッチはこの惑星に生きる人々の希望なんだ。私はエイラと力をあわせて、この惑星を守りたい。
そして私はこの人と、またみんなの所に帰りたい。
サーニャはそう決意し、東の宙に向け手にしたフリーガーハマーを構えた。
おしまい