猫のパジャマと夜更けのエントロピー ――輝くもの天より堕ち――


「私たちには帰る所があるもの」
 そう言ってエイラに微笑むと、
サーニャは自身のレーダーで高度および地平線との角度を割り出し、それに続けてロケットブースターに点火した。
 軌道傾斜の仰角の確定と軌道離脱のための速度変更。いわゆるデルタVを行った。
 ロケットブースターは一仕事終えたかのようにその鼓動を停止し、そして砕け散った。
 デルタVは完了していなかった。


 坂本美緒はネウロイのコア破壊を確認し安堵した。それは遥か3万メートル上空を仰いでの事だった。
 この全長3万3千メートルの超高高度型ネウロイはさながら古代エジプトのオベリスクを思わせる風貌をしていた。
そして風貌だけに留まらず古代エジプト人がその先端に太陽神を掲げたように、このネウロイもその先端にコアを構えていた。
 気温マイナス70度C、4分の1気圧の世界。つまり高度1万メートルの対流圏界面。これがストライカーでの限界到達点であった。
 その対流圏界面の上に位置する成層圏、それは人類の想像しうる遥か限界を超えていた。障害はネウロイそのものだけではなかった。
 この人類未踏の地に対し、501統合戦闘団はその力を総動員して迎撃部隊のサーニャと補助要員を送り込んだ。
多少の手違いはあったもののエイラは補助要員としての責務を全うしていた。そしてサーニャも無事迎撃任務を成功させたのだった。
 美緒は迎撃へと赴いたサーニャとエイラの安否を気遣い通信をここみた。両名からの返答はない。インカムの故障であろうか。
通信障害などなんて事はない。迎撃任務は終了したのだ。二人が無事に帰還してくれればそれで良かった。
 美緒はデルタVの点火を確認した。それにしては仰角が深すぎると感じる。
 美緒がサーニャのロケットブースター欠落を確認したのはそれからまもなくの事だった。


 空間認識能力を持つミーナも美緒と同様に上空での異変を把握していた。
 ブースター欠落は想定外であった。想定外とは言ったがこれは補助要員も含めた二人共にブースターを欠落するという意味である。
潜在魔力の高い宮藤を補助要員に割り当てたのは帰還も考慮しての事であったのだが、今それを述べても仕方がない事だった。
 このままだと二人は打ち上げに必要としたエネルギーと同等の衝撃をその体に受ける事となる。
高度3万メートルからの自由落下は時速千キロメートルに達する。落下までのタイムリミットは百秒もない計算となるのだった。
 ミーナは咄嗟に救助プランの検討に入った。
ロケットブースターは圧縮されたエーテルと魔法力を反応させて推進力を得る構造となっている。
そしてこんな事もあろうかと、片方のブースターが破損した場合でも十分な推進力を得られるように、
両脚のストライカーからバイパスさせ一つのブースターへの魔力供給が可能な設計となっていた。
「流石はカールスラントの職人魂ね」とミーナは自国の開発者達を内心で称賛した。
 ミーナは上空の二人にこのバイパス法を伝えようとし、そして気付いた。
通信機は故障している。それだけではない、上空の2組のロケットブースターは4機すべて欠落しているだ。
思考が正常に作動していない。おそらく今自分は相当気が動転しているのだろうという事まで気付かされた。
 そもそもロケットブースター欠落は当初の設計通り作動した結果だった。
成層圏では生命維持を行なうだけで莫大な魔力を消費する。そのための一定量の魔力をリザーブする必要があった。
ジェットストライカーでの問題点をフィードバックし、魔力供給が低下した場合には自動投棄する仕組みになっていた。
 凝り性なカールスラントの開発者達による入念な安全設計が今、その安全を脅かしていたのだ。
「ブースター欠落が想定外ですって? これだからカールスラント人は堅物なんて揶揄されるのよ」ミーナは己を含めた自国民を内心罵倒した。
 ミーナは自暴自棄になりかけていた。結果的にとは言え、二人を送り込んだのは紛れもなく自分自身なのだ。
 そして誰かに泣き付きたい衝動に駆られ、自然とその視線は美緒に向けられた。彼女の表情は険しかった。
 ミーナは普段通りの自分を取り戻していた。


 美緒もまたミーナと同様に救助プランを練っていた。ロケットブースターの予備はない。だが……ペリーヌ、彼女ならば可能ではないか?
ロケットブースターの配備が危ぶまれた当初、美緒はペリーヌを迎撃部隊に推していた。
積乱雲自身の上昇気流と、積乱雲から成層圏への放電を利用した電磁加速によってペリーヌを打ち上げようというのである。
彼女ならばやってくれる。美緒はペリーヌをこの上なく信頼していた。
 また美緒は経験測により積乱雲が数日の周期で容易に発生する事をも予測していた。
 ここロマーニャ半島は美緒の出身地扶桑列島と同じく気圧の谷であった。気圧の谷とは寒気と暖気の境界面が大きく蛇行している部分である。
そしてこの春の時期、気圧の谷は温帯低気圧を生み出す。温帯低気圧に伴った寒冷前線面には積乱雲が発生するのだ。
 だがこの救助プランにも大きな欠点があった。
これは事前の準備期間を与えられた作戦行動ではない。タイムリミットは僅か百秒しかないのだ。
積乱雲は確かに発生していた。だがそれはアドリア海沖のさらに東へと移動していた。とてもじゃないが間に合う距離ではなかった。
 美緒は思わず唇を噛み締めた。瞬間ミーナと視線が交錯した。彼女も既に察している。
その瞳は「何も語るな」と訴えかけていた。「彼女達を信じなさい」そう言いたいのだろう。
 部下達には悟られてはならない。この馬鹿共の事だ、これを知れば無理を承知で二人の救助に向うだろう。命をなげうってでも。と美緒は考えた。
 そもそもこの位置から直接ランデブーしようものなら、上下のベクトルに進路が180度真逆になるのである。
それはランデブーではなく相対速度を加速させた衝突を意味していた。
 今は上空の二人を信じるしか手立てはないのだ。ウィッチに不可能は……ない。
美緒は「ふぅむ」とただ唸り声を押し潰した。そしてもう一度天上を仰いだ。


 エイラはサーニャのロケットブースター欠落を確認した。ブースターは十分な仰角を得る前に力尽きたのである。
サーニャによるデルタVの失敗、それは彼女達二人が地上へと帰るすべを失った事を意味していた。
 エイラはサーニャを守るためここへとやって来た。そして、そのとき既に彼女の翼は失われていたのだった。

   昔ギリシャの イカロスは
   蝋で固めた  鳥のはね
   両手に持って 飛び立った
   雲より高く  また遠く
   勇気ひとつを 友にして


 エイラは、七五調の詩の一節を思い浮かべた。太陽に向い飛び立ったイカロスの勇気を讃えた詩だという。
 だが彼女は知っていた。それは勇気ではなく蛮勇であることを。この物語の悲しい末路を。
己を過信し太陽に恋した彼は、その太陽に近付きすぎだ故に蝋で固めた両腕の翼を失い墜落したのだった。
「このままポーラージェットに流されて私もイカリア島に墜落するのだろうか?」と考えエイラは眼下を見下ろした。
 ロマーニャ半島を横断するアペニン山脈には吊し雲が、アドリア海上空の積乱雲は発達の限界を向えかなとこ雲を形成していた。
その東をゆく巻雲の間に間からはエーゲ海の島々見える。その中にイカリア島が確認できた。イカリア島、そこはイカロスの墜落した島だった。
 エイラは自身にイカロスを重ね合わせていた。「彼はもっと高高度へと飛び立っていたのだろうか?」
 実際ここは冷たい世界だった。

   赤く燃え立つ  太陽に
   蝋で固めた   鳥のはね
   みるみるとけて 舞散った
   翼うばわれ   イカロスは
   落ちて命を   失った



 エイラは生まれて始めて死というものを意識した。死を決意したのは始めてだった。
 彼女はこれまで沈没してゆく戦艦、撃墜されてゆく戦闘機を幾度となく目撃して来た。
だがそれは自分とは隔離された別の空間で起こっている出来事であった。
 これには彼女の天才的な才能が所以していた。彼女は未来予知が可能である。
その被弾率ゼロパーセントの自信が自然と彼女の感覚を麻痺させていた。
 ことさら彼女の周りには昔からエースと呼ばれるウィッチが集結していた。
同郷のニッカなどは幾度となく撃墜され幾度となく生還して来たのだ。
少なくともエイラの中でウィッチとは、死と無縁な存在だったのだ。
 エイラが日頃、自分とは違う種類だとカテゴライズしてきたペリーヌやバルクホルン。
なぜ彼女達は必死になれるのか、なぜ努力を怠らないのか。今は彼女達の思考が読み取れる。
一度故郷を失ったペリーヌ、妹を守り切れなかったと感じていたバルクホルン。
彼女達、いやまともな人間にとって死が真直な存在だからなのだとエイラは気付いた。
 宮藤のはにかんだ笑顔がエイラの脳裏に浮ぶ。エイラは宮藤から誰かを守るためならば人は限界を超え必死になれるのだと教わった。
 宮藤は己を犠牲にし、私をサーニャの所へと送り込んでくれた。
ならば今度は私が、自分を犠牲にしてでもサーニャを地上へと送り返す番なのだ。とエイラは決意した。
 今、自分の足元に位置するヴェスヴィオ火山。この火山の噴火により消失した古代都市ポンペイ。
そこから発掘された母親の遺体は我が子を守るように覆い被さりながら死んでいたという。
土石流が迫る時、彼女は死を覚悟しただろう。それでも我が子だけは必死に救おうとした。
 己の欲望に邁進する事、それは勇気ではない、蛮勇だ。真の勇気、それは守るべきものがある者、死を覚悟した者の特権なのだ。
「サーニャを守るためならば私のからだなんか、百ぺん灼いてもかまわない」
 エイラはこの冷たい世界でその胸の内を焦がしていた。
「じゃあな、サーニャ」
 エイラはサーニャにたった一言、そう告げた。


 サーニャはこの状況下において、まだ諦めてはいなかった。
「私が、エイラを連れて帰ります」そう仲間達と約束したのだ。諦めるわけにはいかなかった。
 生への執着と死への覚悟。サーニャとエイラ、二人の心は対称的であった。だがそれでも相手を守りたいという気持ちは完全に一致していた。
 ただしサーニャは具体的な解決法を導き出していたわけではなかった。
今サーニャの心を支えていたのは彼女の目の前にエイラがいる事、ただそれだけだった。
 だから尚更「じゃあな、サーニャ」この言葉を受け入れるわけにはいかなかった。サーニャはその言葉の意味を理解してた。
二つの物体間には慣性の法則が適用される。エイラは自分の体との反動によってサーニャを射出しようとしているのだ。
安全な軌道傾斜を得られる自分とは対照的なエイラ自身の危険性を、サーニャは容易に想像できた。
 サーニャにとってエイラを失い自分だけ生き長らえるなど無意味なのだった。
 サーニャはエイラの腰に両腕を巻き付け抱きついた。言葉は必要なかった。エイラの決意を変えさせるのは、それだけで十分だった。
「アイバブ・コントロール」エイラはそう叫び、意を決してサーニャを抱き寄せた。
「うん、ユーハブ・コントロール」サーニャは一呼吸置き、頷いた。
 それからエイラはシールドを形成する。もはやシールドをはる事など恥てはいなかった。
 体を反り返し背面飛行に入ると、自由落下を開始していたエイラの肉体に綿毛のようなサーニャの重みが感じられた。
「なあサーニャ、サーニャはどこに落ちたい?」
「あなたとなら、どこへでも」
 サーニャはエイラにその身を委ね、そして静かに目蓋を閉じた。


 石橋を渡っていた少女が、空を見上げて叫んだ。
「あっ、お姉ちゃんみてごらん、流れ星」
 ロマーニャのとある小さな村、正午の空を青白く輝く一つの星が走った。
「願いごとをおっしゃい」と姉が言った。「願いごとをおっしゃい」
 その星は次第に輝きを増していった。

 エイラがシールドを形成したのにはそれなりの理由があった。
ドラックシュートの代わりにシールドをエアロシェルとし、大気との摩擦で減速を行なおうというのである。
 エイラは少なくともサーニャを対流圏まで送り届けようと考えていた。
低速度で対流圏に到達すればストライカーによる滑空が可能である。またそのための魔力をサーニャに温存させてやりたかった。
 だが実際エアロシェルは大した効果を発揮してはくれなかった。原因の一つは大気が稀薄であった事。
もう一つの原因、それは十分なシールドを形成するだけの魔力がエイラには残されていなかった事であった。

   生命維持に必要な魔力+シールド形成に必要な魔力>残存魔力

 この冷たい不等式を美しい等式へと変換するためには、左辺から余分なものを削除する必要があった。即ち生命維持機能である。
 高度3万メートル。そこは気温マイナス40度C、100分の1気圧の世界。
大気は地表の1パーセント程度と稀薄なものでしかなく、酸素は紫外線により光解離されオゾンへと変化していた。
この地に存在するにはそれだけで膨大な魔力を必要とした。そして生命維持への魔力供給を打ち切る事は死を意味していた。
それでもなお、エイラはこの賭けに乗じる他なかった。
 エイラは生命維持機能を細分化し、その一つ一つのスイッチを慎重かつ大胆に心の中で次々とオフにしていった。
 まず温度調節。これは高度に比例し低下を続けていたが、シールドと大気による摩擦の熱変換により補われていた。……オフ。
 次にオゾンの酸素変換。止むを得ない、深呼吸をし毛細血管の隅々に至るまで酸素を溜め込んだ。
更に気圧を考慮して、肺の空気を捨て去った。……オフ。
 続けて1気圧の維持。ここでエイラの心の指が止まった。0気圧でも生存は可能である。
ただし急激な気圧低下は心臓麻痺による即死を導く。血中窒素が気化するためであった。
エイラは高度にあわせ、一気圧から徐々に減圧を開始した。アナログ式に……オフ。
 最後に紫外線と放射能被爆の遮断。これに関しては即断できた。抱き抱えたサーニャの肉体そのものが身を呈して遮ってくれていた。オフ……。
 生命維持機能解除完了。エイラは廻せるだけの魔力をシールドへと注ぎ込んだ。シールド形成は安定した。
残るはエアロシェルが期待通りの働きをしてくれると願うばかりであった。それまではシールドを維持しなければならなかった。
 エイラが最初に体の異常を感じたのは耳鳴りだった。次に眼球の水分が奪われ目が霞んでいった。
そして肺がチリチリ痛みだし、最後には指先の毛細血管が破裂しだすのを感じてた。
 エイラの全身は悲鳴をあげ続けていたが、それでもシールドにはひとひらの揺らぎも起きはしなかった。
エイラはサーニャが生き抜く事だけをイメージしてシールドを維持し続けた。二匹の魚が頭に浮かんだ。
なぜだかはわからなかった。
 エアロシェルはその効果を顕著に現してきていた。高度低下に伴い大気濃度が増加したためである。
 エイラも減速率の増加をその体に感じていた。彼女の体は降下速度の低下に伴いG増加を受けていた。
そして先程は綿毛のように軽かったサーニャの肉体も、今ではエイラの体へと重くのしかかっていた。
その重みはエイラの気力へと変換されるはずであったが、苦痛を訴える体の機能は正直に働いていた。
 エイラはじっとりとした汗が全身に浮かんでいくのを感じた。
「サーニャに汗臭いって思われないかな?」エイラは薄れゆく意識の中でそんな事を考えていた。
汗は気化され臭いの心配など必要なかったが、その汗は皮膚表面に氷つき彼女の意識低下を加速させていった。
 エイラの意識が次第に失われていく中で、彼女のシールドは依然としてその輝きを失っていなかった。
 シールド表面に衝突する大気の粒子は更に濃度を増し、エーテルとの摩擦は二人の体をより青白く美しい輝きに包んでいった。


 サーニャは自身の体重を取り戻していくのを感じていた。エイラが減速に成功したのだと気付いた。
「エイラならなんとかしてくれる」とサーニャは信じていた。
それが間違いではないと証明された事がただ嬉しく、絡めた腕に自然と力が籠もっていった。
だかサーニャのそれとは逆に、エイラの両腕はサーニャの腰から解けていった。
エイラの上半身が次第に引き剥がされていくのをサーニャは感じた。
 サーニャは今までエイラの胸に埋めていた頭を引き起こし、慌ててエイラの顔を見上げた。
エイラは呼吸をしていなかった。彼女は自ら生命維持機能を解除したのだとサーニャは悟った。
 エイラの美しい長髪は凍り付き、白く透き通った顔立ちは蒼白に歪められていた。
この弱々しくやつれた顔をサーニャはいとおしく感じた。今までみてきたそのどれよりも。
拗ねてみせた時の慌て顔、、かわいい寝顔、自分を守ってくれると誓った時の凛とした顔でさえ、これに打ち勝つ事はなかった。
 サーニャはエイラに顔を押しあて、酸素供給を開始し「また、無理させちゃったね」と声に出した。
 こんな所まで連れてこさせた挙げ句、今度は命の危険に曝させた。自分がわがままを言えばこの人はいつも無理をしてくれる。
自分はいわゆる悪女なのだろうかとサーニャは思った。
申し訳ないと思うより何十倍も、エイラのその行為が嬉しくて仕方ないのだ。それが素直な気持ちだった。
 サーニャは自分のマフラーを解くとエイラに巻き付け、決して二人が引き離されないように互いを赤い糸で結んだ。
そして自身の生命維持保護膜を拡大させてエイラの体を包み込んだ。
 サーニャはその全身から急速に体温が奪われていくのを感じた。
今まで遮断されていたサーニャの体温が、熱伝導によってエイラの肉体をゆっくりと温め始めたのだった。
 そして温度上昇に伴い活動を再開した匂いの粒子達がサーニャの鼻腔を刺激した。
それは穏やかで心安らぐ、いつものエイラの香りだった。サーニャはそこにエイラの生の証を感じた。
 サーニャは残されたすべての魔力をエイラの生命維持に注ぎ込んだ。
エイラが命を危険にさらしてまで温存させてくれた魔力のすべてを、サーニャはそのエイラの命を守るために注ぎ込んだ。
 しばらくしてサーニャは目前に対流圏界面が迫って来るのを確認した。
酸素供給の心配はこれでなくなりそうではあったが、これ以上の減速や滑空のための魔力をサーニャは残していなかった。
 対流圏界面はかなとこ雲や巻雲に覆われ、その雲々の揺らぎの様はまるで雄大な大海に走る波飛沫のようであり、
このまま対流圏界面に突入する事は、さながら水深の浅い水面へと飛び込むようなものだった。
対流圏界面は高度1万メートル。速度と入射角を考慮すれば十分な深さとは言えなかった。
 何か方法はないものかとサーニャは考えた。
「水面……、飛び込み……、お腹痛い……。お腹痛い? そうだ、ハルトマンさんが言っていたじゃない」
とサーニャは先日の出来事を思い出した。
 先日の水浴びでハルトマンがお腹を打ち付けた理由をサーニャは聞いていた。
頭から綺麗に飛び込んだのでは浅い水底に激突する。だからハルトマンは腹部全体を使い水面への抵抗を増したのだ。
あれは不恰好なカエルダイブではなく、腹に頭は替えられない苦肉の策だったのだ。
 だとしてもどうすれば良いのだろうか。今以上の空気抵抗を得る方法は。とサーニャは再び考えた。
エイラが気を失ってまで形成してくれているシールドは、その輝きを失い始めている。そして自分にはもう魔力が残されていなのだ。

 その時サーニャの右前方で何かがきらめいた。サーニャはその物体を確認する。見慣れたロケット砲。
ネウロイとの戦闘後打ち棄てたはずのフリーガーハマーがそこにあった。
オゾン対流、いわゆるブリュワー・ドフソン循環に流され、それは運ばれて来ていた。
速度とベクトル。サーニャは万全のタイミングでランデブーを果たし、懐かしのフリーガーハマーをその手にした。
 ここにフリーガーハマーがある事、これは偶然などではない。
エイラは初めからこれを予知し、ここへと導いてくれていたのだとサーニャは感じていた。
「エイラならなんとかしてくれる」とサーニャは信じていた。
 自分が困難に直面した時、いつも彼女が守ってくれていた。
いや自分がそれ気付いた時、それは既に彼女が不安を取り除いてくれていた後なのだ。
いつでもどんなときでも彼女は常にそうなのだ。この人は自分専用の王子さまなのだ。とサーニャは言い切った。
 そしてサーニャは童話に登場するいかにもな王子さまの格好をしたエイラを想像して少し笑った。
生きる勇気が湧き出たような気がした。
「私がエイラをつれて帰るつもりだったのに、結局ここまで手を引かれて来ちゃったね」
そう言ってサーニャはフリーガーハマーを構えた。ロケット砲の反動で推進力を得るつもりなのだ。
 装填残弾数は三発。
 一発目、対流圏界面に向かい垂直に発射した。対流圏界面は十分な抗力を持っていなかった。失敗。
 二発目、角度を加え気流に乗る、浅い。
 三発目……。サーニャは自分達の体が横方向に流されていくのを感じとった。
 二人が対流圏界面に突入する様はカエルの飛び込みのようにではなく、
それはさながら寄り添う二匹の魚が水面を飛び跳ねているかのようだった。


 二人の姉妹は真昼の流れ星を眺め続けていた。
 その星は一瞬またたき、三回ほど飛び跳ね、そして消えた。
 しばらくその行方を追っていた妹はそれに飽きたのか、両腕を翼に見立て駆け出した。
「私はね、おばぁちゃんみたいな立派なウィッチになるの。
そしてウィッチーズのお姉ちゃん達みたいに悪い奴らをやっつける」と妹は駆けながら言った。
「ねえ、お姉ちゃんはどんなお願いをしたの?」と妹は一回転して向き直り、姉に問い掛けた。
「私はね……。世界が平和になりますように。世界のみんなが幸福でありますようにって、そう願ったわ」と姉が答えた。
「じゃ私と同じだね」と妹は無邪気に笑った。
「そうね」と姉はほほ笑み返した。


 サーニャは眼下に糸杉の森を確認していた。既に生命維持に魔力を必要とする高度ではなくなっていた。
しかし、このままエイラを抱え基地まで辿り着くのは不可能だと感じていた。
墜落だけは避けたい、なんとしても不時着だけはしたかった。
 先日エイラがくれた糸杉の枝。その枝はおそらくこの森でみつけたものなのだろう。
もしかしたらここへ落ちる事も、あの時点で既に決まっていた事なのかもしれないとサーニャは思った。
 運が良ければあの糸杉の枝葉に引っ掛かり、墜落は免れるのだろうかとサーニャは考えた。運が良ければ。
今日一日でどれだけの運を使い果たして来たのか。あとどれほどの運が残っているか。サーニャにはわからなかった。
 だがその心配に及ばず運は残っていた。いや運などではなく仲間との絆が彼女には残されていた。
 サーニャの元に女神が舞い降りた。
「ぎりぎりセーフ。わーりー遅れて。ぴっかぴかのシールドがさっき消えただろ、あれからちょっと見失ってな」
サーニャは誰かの胸に包まれその言葉を聞いた。赤いジャケット、豊満な胸、そしてこの陽気な声の主は。
 シャーリーはサーニャとエイラ二人を揃って抱き抱え、糸杉の木々の合間を颯爽と駆け抜けていった。
「なぜシャーリーさんがここにいるんです。そんなことありえません」とサーニャは驚きを隠せずに言った。
 シャーリーや他の隊員達は基地に帰還しているはずだった。
基地から遠く離れたこの糸杉の森に彼女が存在する事は、距離的にも時間的にも矛盾を生じていた。
「それさ、ありえないようなナロー・エスケイプしてきた奴の言う言葉かよ」とシャーリーはあきれ顔で言い返した。
「でもまあ、なぜかって言えば、それはあたしがワープ航法を会得したからなのさ……って信じてないだろ、おまえ」
サーニャの反応が鈍い、失敗した。ワープ航法は誇張しすぎただろうか。
光速移動とか、もっと現実味のある言い方をすべきだったとシャーリーは真顔で後悔した。
「そんな、ありえないことは、信じろと言われても無理ですもん」とサーニャは疑いの眼差しをシャーリーに向ける。
「どうも練習が十分でない御様子だね。あたしがおまえくらいの歳には、毎日三十分必ず練習したものだよ。
時には、朝飯前にありえないことを六つも信じたくらい。ほら見てみな」
と言うとシャーリーは得意気に目線でその方向を示唆した。
 目線の先にはアペニン山脈の山々が軒を連ねていた。その手前にかかる吊し雲の中から続々と他の仲間達が飛び出してきた。
 吊し雲とは山脈に打ち付けられた風により発生する雲である。その内部はローター気流と呼ばれる風のトンネルを形成していた。
この内部の気流をハルトマンが操り、隊員達はその高速航行で航続距離と速度を稼ぎやって来たのだった。
「リーネがいち早くおまえ達の異変に気付いてさ。
あたしらも魔力すっからかんだったから隊長達に止められたんだけど、
命令無視してみんな飛び出してきたのさ。おまえ達の放つ光を頼りにしてね。
であたしはその一番乗りってわけ」とシャーリーはこれまでの経緯をサーニャに語った。

 そしてシャーリーは木々の合間の開けた空き地に不時着を行ない二人を地面に降ろすと、その二人をまじまじと観察した。
サーニャとエイラは赤いマフラーで結ばれており、未だに抱き合ったままだった。
「もう、そのマフラーは解いてもいいんじゃないか? 早くしないと他の奴等にも見られちまうかもなー。
それともエイラが目を覚ますまでずっとそうしているつもりか?」とシャーリーはにやけた。
「べっ……別にそんなつもりじゃないんです」
とサーニャは慌て結び目を解こうとしたが、思いの他きつく結んでいたらしく一向に解けなかった。
「からかったあたしが悪かったよ。別にそのままで構わないって。
おまえにとってそいつはThe Cat's Pajamasなんだろ? しばらくそうしていなよ」
「The Cat's……猫のパジャマ?」
「そうさ、猫のパジャマさ。あたしらリベリオン人はそう呼んでるんだ」
 二人の会話はそれからしばらく続き、サーニャが結び目を解き終わる頃には他の仲間達もその場に集結していった。
「ほんとに、ほんとに、ほんとにもう。エイラさん、あなたっていう人は。わたくし達がどれ程心配した事か。
だからあれほど、帰れなくなりますわよ、と忠告いたしましたのに」とペリーヌ。
「ふふっ、ペリーヌさんやさしいですね。でも、エイラさんはまだ気を失っているんです。聞こえるはずありませんよ」とリーネ。
「あーあ、すんごい命令違反犯したくせに、すんごい幸せそうな顔で寝ちゃってら。私しーらない」とハルトマン。
「ちょっと待て、命令違反と言うのなら我々も同罪になるのだぞ。この意味をわかっているのか?」とバルクホルン。
「サーニャちゃんとエイラさんのためなら私、じゃがいもの皮剥きだろうとバケツ持ちだろうと、なんだってへっちゃらです」と芳佳。
「え゛ー、ばけつもちー、いゃだー、へっちゃらじゃなーい、あ゛ー」とルッキーニ。
「今度はみんな一緒だルッキーニ。そう悪くもないさ。案外楽しいもんかもよ」とシャーリーが言った。
 サーニャは仲間達の顔を一通り眺め終えると自然と笑みを浮かべていた。そして
「私達の帰りたいと思う場所が、私達の帰るべき場所なんだ」と改めて実感した。


 重大な命令違反を犯したエイラの処分は、三日間の謹慎という思いのほか軽微なものに落ち着いた。
 これはロケットブースターの過剰な安全設計が招いたトラブルが併発した事と、
結局は隊員全員(佐官の二人とサーニャは勘定に入れずに)が命令違反を犯してしまった事に起因していた。
 基地に帰り着き、仲間達の行動を知ったエイラの心は、彼女達に対しする感謝の念で溢れていた。
またそれとは逆に、サーニャに対してだけは懺悔の念で埋め尽くされていた。
 エイラは薄暗い自室のベッドで横になり枕に顔を埋めると、これまでの自分の行動を振り返った。
シールドを拒否していた事、自分一人でサーニャを守ろうとしていた事。そのどちらも自分の慢心により生み出されたものだった。
 もしもあの時、仲間が来てくれなけば自分達はどうなっていたのか。気を失っていた自分にはどうする事もできなかった。
「私は、サーニャの命を危険に曝した」
 自分もサーニャも生きて還って来れたなどと、結果論では語れない事実がそこにあった。
 自分の「守りたい」と宮藤の言う「守りたい」の間にはまだ大きな隔たりがある。
仲間達と比べ、あの宮藤と比べてでさえ、大きく欠損したものが今の自分にはあるのだとエイラは感じていた。
 では具体的に何をすれば良いのか。あの冷たい世界でほんの一瞬だけ垣間見えたその答えを、今はまだ上手く消化しきれていなかった。
 夜が明け明日の朝日をむかえると、それから三日間の謹慎部屋行きが決定している。考えるのは明日でいい。時間は十分あるのだから。
それよりサーニャに謝る事がまず第一だ。できれば今夜のうちにサーニャに謝っておきたい。とエイラは考えた。
 暗闇を進む誰かの足音を耳にして、エイラは胸の鼓動の高鳴りを感じ息を潜めた。
綿布の摩擦音からは着衣がはだけていく様が想像でき、その者の足音はエイラのいる二段ベッドへと近づいて来ていた。
 誰かと言ってもそれはルームメイトのサーニャに他ならなく、勿論エイラもそれを疑いもしなかった。
 足音はベッドの手前で一旦止み、幾時の静寂が流れた。エイラは上手く言葉を出せなかった。
 静寂が梯子の軋む音へ変わりようやく、エイラは「おやすみ」と声をかけた。
 サーニャはエイラがまだ眠りについていない事を知ると、二段ベッドの梯子を登るその足並みを止め
「疲れているよね? ゆっくり休んでね。おやすみなさい」となにかを探るように言った。
 サーニャは大きく息を吸い込み息を潜め、世界が再び動きだすのをまった。
エイラからの返事はなく、サーニャはもう一度「おやすみなさい」と繰り返した。
 サーニャの淋しそうな声につられ「ごめんサーニャ。私のせいであんな目にあわせて」とエイラは声を捻り出して想いを述べた。
 それはサーニャが求めていた言葉のどれとも違ってた。あやまって欲しくなどどなかった。
 だが、もしもエイラが何かを誤解して引け目を感じているのであれば、一刻も早くその不安を取り除いてあげなければとサーニャは思った。
「ううん、そんな事ない。なんで謝るの、私は嬉しかったんだよ。エイラが来てくれて。本当に嬉しかったの」とサーニャは言った。
 自分にしては随分大胆な告白だったかなとサーニャは思ったが、その後のエイラの返事を聞いてその価値は十分なものだったとも思った。
「私も、もう少し頑張って……一歩前に踏み出してみるよ」とエイラは意を決して返した。
 その言葉にはエイラの決意が込められていた。そしてその口調からサーニャもその意気込みの強さを感じとっていた。

「うん」と短くサーニャは答えた。その声は跳ね上がり、体は梯子を駆け降りていた。
 サーニャは今までの自分の勘違いに気付いた。この人はもっと鈍感なんだと思っていた。
自分の気持ちに気付いてくれはしない……というかいつもタイミングが悪いのだ。それがそもそも先日の喧嘩の原因だった。
だけれど自分を守りにきてくた。そして今、これからの決意を述べてくれた。その事がサーニャは嬉しかった。
「宮藤みたいにさ、頑張ってみるよ」とエイラは鼻息混じりに決意表明を続けた。サーニャはその動きを止めた。
「芳佳ちゃんみたいにって……何?」
 サーニャは昇り詰めた血液が足元へと急速に降っていき、それとは逆に別の何かが沸き上がって来るのを感じていた。
「だから宮藤みたいにシールドだったり仲間を信用してみたり。もっと努力してみようかなって思ってさ。
サーニャ言ってたじゃないか諦めるからできないんだって。だから私、頑張るよ」
 エイラがそう語るとサーニャは自分の早とちりを確信した。
 エイラの言う一歩踏み出して頑張るとは「ウィッチとして頑張る」という意味であり、
サーニャが期待したように「私達の一歩踏み出した関係のために頑張る」という意味ではなかった。
 芳佳ちゃんから見習う場所はそこじゃない。見習う場所なら他にあるでしょ。もっとこうスキンシップ的なあれが。
明日から三日間別れ別れになっちゃうんだもの、チャンスは今夜しかないのに
「こっちに来て一緒に寝よう」の一言をなぜ言ってくれないの。
ちょっと見直していたのに、エイラのバカ、鈍感女、ヘタレ王子、それから……それから……。とサーニャの心の叫びは続いた。
 そうだった、忘れていた。こういう人だったんだ、自分が愛した人は。甘い一夜を期待していた自分が馬鹿だった。サーニャはそう思った。
 だからと言ってサーニャは先日に続き喧嘩の第二ラウンドを今から開始する気にもならなかった。
この人にあのような手法は通用しないのだなとサーニャは悟っていた。
「枕……枕返して」とサーニャは突然言いだした。
 ウィッチとしての今後の決意表明を遣り遂げた思いでいたエイラはその言葉に戸惑ったが、
サーニャの声のトーンにただならぬ不安を感じとり、黙ってそれに従った。
 そしてサーニャはエイラから枕を受け取ると即座にそれを床に向かって放り投げた。
「今夜は冷えるわね、エイラ」とサーニャが静かに言う。
「そ、そうかな。そうかもな」床に転がる枕をしばらくみつめていたエイラは反射的にそう答えた。
 季節は春へと移り変り、かなりの月日が経つ。とてもじゃないが冷えるなんて状況ではないのは明白だった。
「ええとても冷えるわ、とても寒いの」サーニャはそう言いながらエイラのベッドに潜り込んだ。

「おとといは枕を抱いて寝たわ。きのうはねこぺんぎん、今日はあなた」

 サーニャはエイラに体を重た。
 薄明かりの中でサーニャはエイラの顔色を伺った。助けを求める仔犬の目。
だけど許してあげないね。私、どちらかというと猫派なの。と決め込んだ。
「ねえエイラ、あなたは猫のパジャマよ」とサーニャは空ろな視線を向けながらエイラにそう告げた。
 エイラは困惑していた。はたして「猫のパジャマ」とはどういう意味か。サーニャが猫で、私はサーニャのパジャマなのか?
 その言葉に「すてきな人」という意味が込められているとは知るよしもなく、
ただサーニャのぬくもりが肌に伝わわってくるを感じながら、エイラはその一夜を明かした。


   おしまい


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