Le Petit Prince
「こんな夜更けにまで私を追いかけてくれるのは嬉しいが。生憎、サインはしない主義でね。子猫ちゃん」
「え?」
廊下には柔らかな月光が差し込む。
目前のマルセイユからいきなり投げ掛けられた言葉に、サーニャはどうしたらいいのかわ
からず、マルセイユをジッと、不安げな瞳で見つめていた。
「冗談だ。これから夜間哨戒なんだろ? リーリヤ」マルセイユは退屈な顔でそう呟いた。
「は・・・はい」
「まぁ、気をつけてな」
そう言い残して立ち去ろうとするマルセイユをサーニャは、
「ちょっとだけお話してもいいですか?」と言って呼び止めた。
「なんだい気が変わったのか? 私の方はそうじゃないんだが」
「い、いえ。サインとかじゃなくて」
「じゃなくて?」
「あ、アフリカの話を聞いてみたくて」
「・・・悪いが、睡眠時間を削ってまで人に自分の昔話を話す程、私はまだ年を喰ってな
いし、あの世界はあそこに行った人間にしかわからないよ」
「そう・・・なんですか」
「まぁ、機会があれば一度来てみればいい。案内ぐらいはしてあげるさ。オラーシャ生ま
れのあんたには、厳し過ぎる程の暑さだと思うけどね」
「あ、ありがとうございます」そう言って頭をチョンと下げるサーニャを見て、マルセイ
ユはほんの少しだけ口の端を上げる。サーニャの生真面目な態度が少々面白いのだろう。
「丁寧だな。ご褒美に、万が一サハラ砂漠の真ん中にストライカーごと墜ちたとしても、助けにいくよ。Le Petit Princeのように颯爽とね」
「Le Petit Prince? あのサンテグ=ジュペリのですか?」
「ん? あぁ、作者はそんな名前だったか」
「本はお好きですか?」
「いや、本は枕にする方が生に合っている。Le Petit Princeを読んだのも、読みやすかったのと仲間が貸してきたからだしな」
「どうでしたか? 好きなお話でしたか?」
「ん? ふふ、はははは!」
マルセイユは突然笑いだした。その表情は心から何かを楽しんでいるようだ。
ただ、サーニャに笑いの意味が汲み取れず、
「あの、私変なこと言いましたか?」と心細そうな顔で尋ねた。
「いや、すまない。今まで色々とインタビューは受けてきたが、本の感想を求められたのは初めてだからな」
マルセイユは笑い終えるとサーニャの瞳をジッと見つめる。サーニャは無意識に背筋をピョンと伸ばした。
「生憎、詩的な表現は苦手でね、感想を一言にすれば共感できる話だというところかな」
「共感?」
「実体験としてもいいな。男が砂漠で出会ったあの大公殿は、束縛からの解放を意味して
るんだろ? なら、私はあのアフリカという地で、大公殿と出会い。別れることなく今も共にいる」
サーニャは真剣な面持ちでマルセイユの話に耳を傾ける。
「もっとも、私は蛇に咬まれるヘマなんてできないね。私は・・・もう自身が星となった。守らなければならない花がいくつもできた」
マルセイユの視線が再びサーニャを捕らえた。
サーニャの胸は射すくめられたような鼓動を打つ。
淡い月の光を纏うアフリカの星は、神々しい存在にへと変貌し、僅かばかりの憂いを残す
瞳だけが、人間らしさを留めていた。
「こんな所でいいか?」
「えっ!あの・・・」サーニャはドギマギとし、上手く返事ができない。
その態度にマルセイユは何かを感じとると、ツカツカと歩を進めた。
「どうかしたか?」
「いえ、何も・・・」
距離が近づいたことでサーニャはマルセイユを見上げる形になった。
近くでみると、その美貌は一層際立った。
「そうか、ずいぶんと慌ててるじゃないか」
マルセイユは指をサーニャのあごにスッとあて、軽く上に持ち上げた。
2人の視線が絡み合う。
「花の手入れは嫌いじゃないんだ。あんたは、リーリヤ(白百合)だろ」
「えっ? えっ?」マルセイユの意図がつかめず、サーニャはしどろもどろになるばかりだ。
花。
確か、Le Petit Princeで花が意味しているのは・・・?
「そういえば、スオムスのダイヤのエースもこの部隊にいたな」
サーニャの思考を遮るようにマルセイユは、そうつぶやいた。
「そいつに伝えておいてくれ、未来が視える者同士の戦いにも興味があると」
「あっ・・・はい」
「じゃあ、気をつけてな」
「・・・はい」サーニャはわけがわからぬまま、マルセイユの背中を見送ることになった。
そして、夜間哨戒のため自身も踵を返した。
あぁ、柱の影から睨まれていたんじゃ敵わないな。
マルセイユは苦笑をもらす。
あの2人がどんな関係かは知らないが、まぁダイヤのエースにとって、余程リーリヤが大切なんだろう。
ん? そういえば、l'essentiel est invisible pour les yeux と教えるのは狐だったか。
あいつにとっては、それは戦いのための未来予知かそれとも・・・。
マルセイユは呆れたような笑い顔をみせるのだった。
Fin