無題
ハイデマリー・W・シュナウファーは、ハインリーケ・プリンツェシン・ツー・ザイン・ウィトゲンシュタインのことが本当に好きだった。
ハインリーケの、項のあたりの皮膚の粒子の細やかさや、さらさらと靡く艶やかな髪や、伸びやか
に善く動く指先が好きだった。
特にハイデマリーが気に入っていたのは、大きくて緑の光彩に囲まれたハインリーケの瞳だった。
それは時として他人を射竦めるように鋭く、それでいて何時だって吸い込まれてしまいそ
うになる程深い色を湛えて、しっとりと濡れていた。ハインリーケがその瞳を閉じて、凝乎と音楽
に聴き入っているような時、ハイデマリーはその桜色に上気したその頬に、そしてその瞼に、そおっ
と唇を当てたくなる。
そんな衝動に幾度駆られたか知れない。
しかし、ハイデマリーは決して同性愛嗜好者などではなかった。
その感情は、彼女達が持つ性的衝動とはきっと少しばかり違っている。
ハイデマリーはハインリーケ以外の如何なる女性にもそんな劣情を抱いたことなどなかったし、またハインリーケ
に対しても、実際にはそんなことなど出来はしなかったのだ。でも、ハインリーケの傍にいる時
に感じるそれは静かな高揚感は、どんな恋愛より切なくて、彼女の周囲に漂っている仄かな香りは、ハイデマリーを何度でもときめかせた。
ハインリーケはいろんな意味で自然に悖って生きている。
ハイデマリーはそう思っている。
ハインリーケはウィッチの誰より聡明で、誰より気高く、美しかった。他の誰とも馴れ合わず、
ただ一人違う匂いを発していた。まるでけものの中に一人だけ人が混じったかのようだ。
彼女に出来ぬことなどなかったし、だから苦しんだり悩んだりもしない。
ハインリーケは十四歳にして達観していた。
だからハイデマリーは、そんなハインリーケがウィッチの中で自分とだけ親しくしてくれること
が不思議で堪らなかった。他のウィッチたちの目に、それが果たしてどのように映っているものか、
想像したこともなかったけれど、彼女が皆の前で自分だけに親しげに声をかけてくれることがハイデマリーの
唯一の誇りだった。
ハインリーケが初めて話し掛けて来た時、ハイデマリーは全く返事が出来なかった。
「ハイデマリー、一緒に散歩に行こう」
ハインリーケは、誰に対してもそうして男の言葉で話した。
ハインリーケの前では、男女の区別は疎か上官と下官の上下関係すら無意味だった。
種類の善く判らない草や花が茫々と繁茂ている土手を二人で歩いた。ハイデマリーは始終下を向き
遂に一言も口を利かなかった。
そして一日中鏡で自分の貌を眺めた。
別に誰と違う訳でもない。いや、寧ろハイデマリーは容姿や能力が優れている分、他のウィッチ達よりも少しばかり勝っている。
水銀の膜一枚隔てて、鏡の中の自分とハインリーケが重なる。
ハイデマリーの中で何かがもやもやと肥大した。
ハインリーケは、ハイデマリーを善く夜の飛行に誘った。
「ハイデマリー。精々月の光を浴びるがいいよ」
ハインリーケは快活にそう云うと、くるりと身を翻す。靭な首筋が月の光に蒼白く映えた。
「月光には何か不思議な魔力でもあると云うの?」
「伽噺じゃあるまいし。月は太陽の光を反射しているだけさ。だからね、太陽の光は動物や
植物に命を与えてくれるけども、月の光は一度死んだ光だから、生き物には何も与えちゃくれないのさ」
「それじゃあ無意味じゃない」
「意味があればいいってもんじゃない。生きるってことは衰えて行くってことだろ。つまり
死体に近づくってことさ。だから太陽の光を浴びた動物は、精一杯に幸せな顔をして、力一杯に
死んで行く速度を速めているんだ。だから私達は、月に反射した、死んだ光を体中に浴びて、少し
だけ生きるのを止めるのさ。月光の中でだけ、生き物は生命の呪縛から逃れることが出来るんだ」
そうだ。ハインリーケは、だから矢っ張り自然に悖って生きているんだ。
ハイデマリーはそう理解した。
「猫のように生きるんだ。私達ナイトウィッチには夜がある」
「そう、夜があるのね」
ハイデマリーがそう云うと、ハインリーケは声を立てて笑う。
「ハイデマリーは、いいね」
ハインリーケは波斯猫のような顔で笑った。