剣の切っ先
「やっ! はっ!」
「力みすぎかな、もうちょっと肩の力抜いて」
「はいっ! せいっ! せいっ! やっ!」
「違う違う腕がだらけてる、力抜くのと気を抜くのは別物だよ」
「は、はいっ!」
――黒檀で作られた得物が、空を斬る。その太刀筋はお世辞にも鋭いとは言えず、どこかまだふらつきと重たさを感じさせる。しなやかで
美しく、鮮やかに光を照り返す黒光りの剣は、あいにく本来の輝きを放つにはまだ程遠い。刀を振るうのはまだ幼い一人の少女、傍らにはそれより
二つか三つ程度長く生きているほかの少女の姿もある。こちらは真剣を腰に携え、肩に赤樫の木刀を担いでいた。時折木刀で地面を打ちつけ、
大きな声を張り上げている。その材質ゆえ、たたきつけるという行為のためにおおよそ美しさからはかけ離れた形となっていた。実戦に使う武器
ではない為、手軽に取り回せる方が良い、という考えの下の選択である。素振りに黒檀を使わせているのは、これが訓練であるからに他ならない。
とはいえ、やはり鮮やかな漆黒の剣は、まだまだ輝きを放ちたいという強い意志を感じざるを得ない。もっと研ぎ澄まされた太刀筋であれば、
きっと刃は自らの輝きを如何なく解き放つであろうものを、今はまだその輝きを放てないでいた。
そうして黒檀が振り下ろされること百回目、ようやく往復運動は終わりを告げる。
「お疲れ様。どう?」
「あ、相変わらず重いです……」
「はいはいがんばる」
「うー、宮藤さんはずるいです」
「訓練生が教官に文句いわない! ほら、次いくよ」
芳佳は訓練生、すなわちクリスから黒檀の刀を受け取ると、背に負った。元々は芳佳の愛用品であるが、訓練には程よいからとクリスに
貸している。相変わらずクリスはうまく振れていないが、太刀筋を鍛えたいわけではない。本来の目的であるところの、物事への集中、および
精神の統一は、ある程度満足のいくレベルに達している。芳佳にとってはそれで十分であった。
かくして一時の平安が訪れたと緊張を抜いたクリスであったが、間髪いれずに腹筋二百回の言葉を耳にしたとき、現実とは何かを心より
実感した。宮藤芳佳とは確かに以前からそういった人物ではあったものの、それでもたまの休みぐらい入れてくれてもいいではないか、と
非難じみた抗議をしたくなるのも無理はない。ただ、訓練が終わった後の笑顔を思うと、そんな愚痴や不満も塵のように飛んでいってしまう
から不思議なものである。何を隠そう、クリスは部屋でごろごろしているよりも、訓練が終わった後の芳佳とのひとときがなによりの楽しみ
なのだ。そのためとあらば、訓練の一つや二つ、へっちゃらでこなしてみせよう。芳佳の目から見ればまだまだひよっこであるところの
クリスは、しかしクリスなりの一生懸命で最善を尽くしている。それを真摯に受け止める芳佳は、最強のエースへ導く階段の在り処を
あたかも知っているかのような、的確な指示をクリスに出す。どれだけ苦しくとも、つらくとも。クリスは日々の成長を実感せざるを得ない
ことばかりで、到底芳佳から離れたいとは思えないと同時に、いつまで芳佳と一緒にいられるのだろうか、いつまで教えてもらえるのだろうか、
とまったく反対のことさえ考えるのだった。
そんな芳佳の鬼のような猛特訓は、基地の中でもちょっとした話題である。スパルタで鬼教官とさえ評される美緒のそれをもさらに凌いで
しまうほどの教えは、しかしクリスにとってはこの上なくありがたいものであった。クリスの姉であり世界でも屈指のエースであるゲルトルート
でさえも弱音を吐く訓練を、それでもなんとかこなしていくクリスは、将来を約束されたも同然であろう。今では基地の誰もが小さな期待の星に
目を輝かせ、今でも遠目にひっそりと見つめる目があるのだった。
「クリスのやつ、がんばってるな」
「どうだ、実の妹がああやっているところを見て」
「……悪くはありません。あいつのことは私が守ってやりたかったですが、でも空に居たってそれは同じですから」
「はっはっは、バルクホルンらしい」
「少佐こそ、芳佳のことがこの上なく誇らしいんでしょう」
白地に肩章が映える扶桑海軍の仕官服に、カールスラント空軍のきっちりと整えられたグレーのジャケット。教導官の候補生たる芳佳を
監督する立場として美緒は立っており、ゲルトルートはその付き添いといったところ。始めた当初は、クリスはただ遊んでいるだけの
ように見えなくもなかったものが、今となっては基礎体力作りに励んでいるのが見て取れる。それほどにクリスの動きは『もっとも』らしく
なり、そしてそれは芳佳がいかにクリスをうまく育てているかを顕著に表していた。美緒はそんな、芳佳の教導官としての成長が自分のこと
よりも何倍も誇らしくて仕方がない。ゲルトルートは、実の妹が日に日に強くなっていく姿を見るのが、たまらなく幸せだった。いつか
妹のことは絶対に自分が守ってみせると心に誓った日があったが、今となってはそれが懐かしく思えてしまう。
そんな朝食前のひととき。日が朝の挨拶を述べる頃合、滑走路脇で声を張り上げる少女と、それに必死ながら従う少女は、はたして
傍からはどう映るか。本人たちには、そんなことは気にするほどもないことであった。
* 剣の切っ先 *
「うー、疲れました……」
「はーい、おつかれさま。水飲む?」
「あ、ありがとうございます……」
地面に大の字になってくたばるクリス。芳佳は苦笑しながら、塩を混ぜた水が入ったボトルをクリスに渡す。大して美味しくもない代物
ではあるが、人間の体に塩分は欠かせない。クリスも割り切って、エネルギーの補給としてそれを愛飲していた。訓練が終われば、とびきりの
笑顔と一緒に芳佳が美味しいものを作ってくれる。そう考えれば、たかだか数時間の訓練なんて耐えられた。たとえ塩の配分が、多少
違っていようとも。
「ぐえ……なんか今日のしょっぱくないですか……」
「ちょっとずつ運動量増えてきたからね」
「うう……じゃあオレンジジュース!」
「ざんねん、今日は林檎だよ」
「お、やった、ひさしぶりのりんご」
訓練が終わった後のジュースの話などしながら、クリスはぱたぱたと扇子を振る。コンクリートにうつ伏せで寝転がり、少しだけ行儀の
悪い格好でボトルを煽った。ゲルトルートが側に居れば咎めていそうな場面であったが、すぐ隣で芳佳が笑みを浮かべていては何も言えまい。
扇子と一緒に足もかわいらしくぱたぱたと振ってみせるクリス。さながら小動物とも呼ぶべきそんな動きは、すぐ隣に座ってみていれば、
誰でも毒気を抜かれるというもの。元々毒気がないのであれば、それが愛情として表に出てくるのは必然である。芳佳はクリスの頭にぽんと
手を置いて、するとクリスはぱっと振り向く。その綺麗でまあるい瞳が可愛らしくて、思わず手が動いてしまう。さらさらと流れる髪の
感触、そういえば昨日はペリーヌがこの髪を洗っていた。さすがに貴族の令嬢、加えてあれだけの髪を日ごろから手入れしているだけあって、
芳佳が洗ってやるのとは雲泥の差だ。流れる髪の心地を確かめるようにやさしくなでてやると、クリスは顔をほころばせて笑って見せてくれる。
かつて美緒が熱心に教えてくれていた日のことを思い出して、美緒もこんな気持ちだったのかと、心の内だけで問いかけてみた。無論、今は
ハンガーの陰で休んでいるであろうかつての教官から、その返事が返ってくる訳はない。それでも、自分が教えている一人の女の子が、
こうして無邪気な、かつ絶対的な信頼の笑みを向けてくれれば、それ以上必要なものだろうか。そんな気持ちは、なんとなく理解できた。
果たして自分がかつて教官に、こんな素敵な笑顔を向けてやれたかどうか、自信はない。けれど嬉しそうな美緒の顔を思い出せば、ああきっと
自分はうまく笑えてたのかな、と少しだけ自惚れる材料にもなったりはした。
「えへへ」
「んー? どしたの?」
「いーえ。なんでもないです」
唐突に、柔らかな笑い声が聞こえた。芳佳の問いかけに対して、それは明確な答えを返さず、しかし芳佳にもたれかかるというひとつの
暗示があった。それに応えるよう芳佳もまた笑みを浮かべてやると、クリスはこの上ないほどに嬉しそうに笑うのだ。教え子にこんなに大切に
される教官も珍しい、それぐらいの自惚れは許されてもいいだろう。ちょっとだけ自分本位な思考に陥り、でもあえて抜け出そうとも思わなかった。
「……よっし! それじゃ、続きお願いします!」
「はーい。それじゃ駐機場いこうか」
「はい!」
クリスは立ち上がり、教官に見事な敬礼をしてみせる。芳佳はそれに対して、穏やかな笑みを浮かべながら首を小さくたおすことで答えた。
芳佳の返事に対して嬉しそうに答え、とてとてと元気に駆けていくクリス。自分を純粋に慕ってくれる訓練生、そんな子と一緒にいられる幸せを
かみ締めつつ、しかしその教えている内容を思うと、教え子の見ていないところでは素直に笑えなかった。自らが教えているのは戦争の方法、
血に汚れる手段。そう思うと、ずきり、と胸が痛まないことなど一度もない。それでも彼女が望むのなら、それに精一杯応えてやるのが教官たる
者の務め。たとえ小さな痛みを我慢することで、もっともっと、ずっと大きな喜びと幸せに包まれるのなら、それも悪くはないか、といつも自分を
納得させるのだった。それは決して無理やりなんかじゃなくて、心からそう思えるから、きっと今でも続いている。芳佳は、自然光とはちがう
少しだけ暗さを感じさせる水銀灯の下で大きく手を振る教え子に、少しだけ早足で近づいてやった。
- - - - -
芳佳はクリスの意思を尊重することに重きを置いており、そして同時にクリスに自主性を身に着けてやりたいとも思っている。そのため
休憩時間はとくに時間を指示しておらず、クリスの休みたいだけ休ませるようにしていた。再開しようとクリスが言い出せば、それに従って
やる。もしどうしても休憩したい、というのであればそれにも従うつもりではいるが、あいにく、というよりは幸なのだが、クリスが自ら
休憩を求めることはただの一度もない。クリスもまた高みを目指すウィッチの一人、強くなるために、尊敬する教官に一日でも早く、一歩でも
近づくため、階段は二段ほど飛ばしてでも駆け上がりたいのだ。
そんな休みが、最近は少しずつ短くなってきている。それはクリスの体力に余裕が生まれたことと、疲労の一時回復が早くなった、即ち
基礎体力が備わってきたことの現われであった。またクリス自身の、自ら進んで訓練に打ち込まんとする自主性が、より深く根を張った結果とも
言えるだろう。見守る美緒もこれには満足しており、実に穏やかな表情で二人を見つめているのだった。
そうして過ぎた今日の朝練の時間は終わりを告げる。基本的に午前に一回、午後に一回、夜に一回という日程で執り行われるため、今日は
あと六時間以上は訓練から離れられることとなった。クリスにとっては苦行から解放される一方、訓練のみならず雑務でも忙しい芳佳と時間が
合わなくなるのは少なからず寂しい思いもある。その分の回収も含めて、訓練が終わった後の芳佳は、クリスにとびきりやさしくしてくれる。
「ありがとうございました!」
「うん、お疲れ様。さ、それじゃ一緒にお風呂いこ!」
「はい!」
頭にあたたかな感触。また頭をゆさゆさと撫でられて、つい頬が赤くなる。芳佳の手はいつだって暖かくて、冷たかったことなど一度もない。
時折、何かで行き違いが起こっても、次に触れる芳佳の手はどんなときも暖かかった。たいてい我侭を言うのはクリスのほうだったから、
いつもその手に触れられて、クリスはごめんなさいとつぶやいてしまう。すると間違いなく、クリスの大好きな教官はうろたえてくれた。
おかしな話である、注意をしてくれたはずの教官は、それに対して反省の意を述べると慌てるのだ。クリスがそれを言うと、芳佳はいつも
歯切れが悪い。曰く、褒められることと謝られることはいつまで経っても慣れないらしい。特に、クリスとのそれは喧嘩とも言えないほどの
小さなものだから、余計に萎縮してしまうと言っていた。それはそれでなんだか申し訳ないと思いながら、それでも芳佳と笑っていられる
クリスに文句はなかった。
そうして、すぐにでも芳佳と一緒にお風呂に入りたいクリスは、宛がわれた自分の部屋まで軽い足取りで駆けていく。やさしすぎる部隊長の
計らいで姉の隣にしてもらえた部屋は、姉のおかげで綺麗に片付き、芳佳のおかげで少しだけアクセントがあって、そしてリネットのおかげで
どこか女の子らしい雰囲気を与えてくれる。いろんな人に愛されて、クリスはこの部屋が大好きだった。それでも、芳佳とのお楽しみの時間には
勝てようもない。鍵を開けて部屋に飛び込むと、早々に着替えを手にとって、再び風呂場へ駆けていくのだった。
「ご苦労だったな」
「いえ、いつも見ててくださってありがとうございます」
「なに、そう気にするな。で、どうだ、手応えの方は」
「こんなに順調で良いのかなってぐらいです」
一方クリスを見送った芳佳は少しだけ美緒と話し込んでいた。話し込むといっても今日の訓練について感想を言い合うぐらいのものだったが、
今後の訓練のため、芳佳にとってはこの時間が何よりも大事である。もちろんクリスと一緒にいる時間は楽しいし、当たり前だがリネットや
サーニャをはじめとして、みんなと一緒に居る時間はかけがえのないもの。だがあくまでそれはプライベートの話である。学生である前に
軍人である芳佳は、実際に必要なことも考えなくてはならなくて、そして今となってはそれも当たり前になっているのだった。
「お前は上手いな、教官と訓練生の距離があまり近すぎると、逆に上手く行かないことが多いんだが」
「いえ、なんていうか……クリスちゃんがかなり慕ってくれてるので、ほとんどそれに助けられてる感じです」
「はっはっは、傍から見ていると面白かったぞ!」
「うう……あ、あんまり言わないでください、その、結構恥ずかしいので……」
以前、ストライカーの整備をしていたシャーロットに感想を問うたら、こう返された。おまえペットなんか飼ってたんだな、あっははは。
まさか自分の訓練生をペット呼ばわりされるなんて思っても見なかったから、そのときは本気で怒りそうになったのを今でも覚えている。
別にそんな意味じゃなくて、それだけクリスのことをかわいがっていて、ちゃんと愛情をもって接してる、と説明を受けて、それがまた
恥ずかしかった。褒められているのに早とちりで怒りそうになって、なんだかその場に長居ができなかったのは、おそらく忘れられない
汚点だろう。
とはいえ、最近は書類の方でもいろいろと忙しなくなってきて、あまり自由な時間がとれなくなっている。以前は訓練明けにクリスと
お菓子を食べながら雑談する余裕もあったのだが、ここ最近は『動き』が多いためにそれさえ叶わなくなっていた。本当はもっと、
リネットやエイラたちと一緒に、食堂でわいわいと騒いでいたい。それでも、きっとこの先起こるであろう大きな戦いを思うと、今は楽を
する気にはなれなかった。時折誘ってくれるリネットやクリス、サーニャたちには悪いが、今はそれよりも、ミーナやエーリカ、美緒、
そしてゲルトルートたちと一緒に、戦況に対する対策を考えることのほうが重要である。芳佳は学生である前に軍人だった。どこから
そんな精神が沸いて出たのか、時折ミーナはおろか美緒も不思議に思うことがあった。あれだけ真っ向から戦争に反対していたはずの
芳佳は、今となっては開戦の狼煙にもなりかねないキーパーソンにさえ成り上がっている。そうでなくとも、新人の訓練を一から担当して
みせるとは、なかなかの器だ。
たとえ美緒の手から離れてもまだまだ成長途中な芳佳にとって、そうして認めてもらえることは少なからず嬉しいことであった。
クリスが芳佳に褒められたときにひまわりのような笑みを浮かべるように、芳佳もまた、最近のミーナや美緒からの意見をもらうと、
太陽のような笑顔を浮かべるのだ。
しかし、今はどちらかというと、ひまわりの花を咲かせる時間。太陽はまだ、上りきるまでにもう少し時間がかかる。ひまわりが太陽の
方を向いてくれるように、花を咲かせにいかなくては。
「それじゃあ、クリスちゃんのとこいってきますね」
「ああ、後で私も行くよ」
「はい、それじゃ二人で待ってますね」
「わかった」
芳佳もまた、美緒に見送られながら駆けていく。少し急いで走ったその足、着替えをとって風呂場につく頃には、クリスはすこしだけ
ほほを膨れさせているのだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
互いに背中を流し合いながら、二人は笑いあう。いくら師弟関係と言えど、あくまで彼女たちは幼い少女達。ひとたび軍人としての面を
はずせば、そこには自分の好きなこと、楽しいこと、そういったもので気ままにはしゃげる、年相応の女の子がいる。二人はそう年が大きく
離れているわけでもなく、それなりに意気投合を見せていた。
「んー、しかしクリスちゃんもだいぶ成長したね」
「ほんとですか!? ありがとうございます!」
「ほら、最近休憩も短くなってきたでしょ? そろそろメニューを根本的に組みなおしても良いかもね」
芳佳の、心からの気持ち。今のクリスのことを純粋にすごいと思えるし、自分の教え子として何よりの誇りだった。相変わらず素振りに
関してはまだまだといったところだが、そもそもあれは素人に重たい刀を渡していることに問題がある。ただ、別に素振りの訓練をしたい
わけではなく、単純に精神統一や重量物に慣れさせるというそれだけの目的でやっていることだ。今芳佳が持っている赤樫のものでも
渡せば、もっと綺麗に振れるであろうが……芳佳は、今はそれを求めてはいない。それよりも基礎体力と、そして実戦で死なない、いや
むしろ一人前に戦果を挙げて帰ってくる実力を身につけてやりたかった。実際、それは順調に、予定よりも良いペースで進んでいる。
芳佳に褒められ、クリスはこの上ないほどに喜んでいる。頬を赤くさせ、やった、と小声でしきりにつぶやく。芳佳にも聞こえている
わけだが、こうして教え子の嬉しそうな顔を見られるのは教官にとっても実に喜ばしいものだ。最初に美緒にこの仕事を言い渡された時は
どうなることかと思ったが、今では受けてよかったと心底思える。最近はクリスとそれなりの距離を飛行して帰ってくることもあり、
この間はストーンヘンジの観光などもやっていた。大空を共有できる友の増えることは、何にも換えがたい喜びである。
――だが喜ぶクリスには、言葉や態度とは裏腹に、少し疑問に思う点もあった。芳佳の言い方からすれば、小型ネウロイ程度であれば
クリスでも十分に戦えるぐらいの技量は身についているはずだ。一人ではまだ難しいかもしれないが、きちんとサポートをつけてもらえれば、
前に出て戦う事だってできる自信はある。特に芳佳が背中を支えてくれれば、怖いものなどないに等しい。だが、それでも芳佳はなお、
クリスの実戦への参加を許可しようとはしてくれなかった。初めての出撃、渓谷突破作戦の際は、全員で出撃したためにサポートが多かった
点、渓谷内部で脱落する際にはリネットが共に居て支えてくれる点などがあったために許可してくれたのだという。加えてクリスが戦場に
たどり着いたときには、既に敵の地上部隊は一掃され、正体不明の光学兵器が空を染めていた。実戦における戦場の空気は身にしみて味わえた
が、戦果という戦果はひとつもあがっていない。一応敵に攻撃を叩き込むことはできたものの、それが果たして役に立ったかどうかは疑問な
ところである。即ちクリスにとって、初陣は経験したものの、いわゆる『戦闘』に身を投じたことはないに等しい認識であった。今は芳佳の
おかげで当時よりもだいぶ実力も身についたため、腕試し程度にでも出撃がほしいところなのだが――何か事件が起こったところで、芳佳は
クリスの出撃を許可しない。一度だけクリスも出たいと主張したが、芳佳には命令違反だと切り捨てられてしまった。確かにそのとおりでは
あるのだが、訓練の際にしばし投げかけられる褒めの言葉は、しかしただの虚像に過ぎなかったのだろうか。芳佳の笑顔を見ているととても
そうは思えなかったが、世の中には社交辞令、なんて言葉も存在するぐらいだ。クリスは少し、不安になる。
その後の訓練も順調に進み、クリスは日々、自分の成長を実感するのだが……、やはり哨戒任務にさえ出してもらえない。長距離飛行訓練の
一環として哨戒コースを飛ぶことはあれど、そのときは芳佳が実弾を装備するのみで、クリスが装備させてもらえるのはペイント弾による
訓練装備だけ。もし道中で自分たちに敵対する何かと接触した場合は、即時撤退するように、と毎度念を押されて出撃させられている。
……訓練による成果と、勤務の実態の相違。日に日に膨らむばかりの疑問は、ついに弾けて限界を超えてしまう。クリスは少々躊躇いがちに
なりながらも、それでもある日の訓練終わり、芳佳に問いかけるのだった。
「あ、あの、宮藤さん」
「ん? どうしたの、そんなに緊張して」
「えっと、すみません、ひとつ質問しても良いですか?」
何でも聞いて、といわんばかりにやわらかい笑みを浮かべる芳佳。少々自意識過剰というか、おこがましいというか、そんな質問をぶつける
には心苦しい表情だった。それでも、我慢のできないものを無理矢理我慢するのは、かえってよろしくない。それにこんなことで機嫌を損ねる
芳佳ではないはずだ。クリスはまだあまり付き合いの短くない、それでも大好きな教官に、少しだけ背伸びした質問をぶつける。
「……おこがましいかもしれないんですかど、私ってまだ実戦には早いんですか?」
少しだけ目を逸らしながら言う。芳佳は一瞬きょとんとして、しかしすぐにまた笑みを浮かべてくれた。わずかにばつの悪そうな顔を浮かべた
クリス、それに構うことなく芳佳はクリスを撫でる。予想外の反応に驚いて見上げると、そこにはまるですべて包み込んでくれそうな、とても
優しい笑顔があった。ついにクリスは何もいえなくなって、芳佳にされるがままであった。
「別にね。腕が劣ってるとか、そういうわけじゃないんだよ」
ベンチに座って、芳佳が持ってきていたオレンジジュースを飲みながら。クリスは首にタオルをかけて、芳佳は空を見上げて。ぽつぽつと、
クリスが実戦に出させてもらえない理由の話が始まる。芳佳は、淡々とクリスに告げた。
おそらく今のクリスの腕前であれば、周りのフォローがしっかりしていれば、大型ネウロイとも臆せず戦えるだろう。戦果を挙げるのはまだ
難しいが、少なくともコアを探す手伝いや敵の装甲を引き剥がすぐらいの活躍は十二分にできる。小型ネウロイは動きが機敏なので狙いを
定めにくいが、とはいえ訓練で芳佳に命中させる弾の数は日に日に増えているのが最近の実態。いくら芳佳が手を緩めているとはいえ、不規則
機動を行う敵の進路を読もうとするその動きは、決して小型ネウロイにも通用しないものではない。相手をきちんと選べば、クリスの実力は
スコアを稼げないほどではなかった。
……だが、それはあくまで相手を選ぶことができれば、の話である。今は、それよりもっと、ずっと厄介なものを相手にしているのだ。
今ストライクウィッチーズが直面している当面の問題は、国際的にタブーとされ禁じられているネウロイ兵器について熱心に研究する、
一部の『異端児』達の取り扱いである。既にストライクウィッチーズが出撃するケースも何度かあり、即ち今の501が相手にしているのは
ネウロイではなく人間であることになる。どれだけ相手が悪人であろうと、そこには愛する家族があり、生活があり、そして家族のほかにも
愛する者を持っているかもしれない。だがそれをすべて打ち壊し、残された家族達の心を抉り、決して癒えない傷跡を心に深く強く、刻み付ける。
それが今のストライクウィッチーズの任務であり、命令であった。絶対服従、できない者は最悪は命を絶たれても文句は言えない、それが
軍隊の、一応のしきたり。
「クリスちゃんはそんな命令に、従う決意はある?」
……思わず口ごもるクリス。そう、誰だって人を撃つなんて狂気に塗れたことなんて、そう簡単にできやしない。クリスに一番欠落している
のはその決意であり、実力よりも知識よりもよっぽど必要なそれが欠けている人間を、実戦の空になんて到底上げることはできなかった。自分の
手を血に染め上げ、時には恨みを買い、それらを背負って一生を生きていく。それが彼女達の負うべき十字架であり、そして彼女達に求められて
いる一番の重荷であった。
とても、未成年の少女達が背負うべきような代物ではない。だが、それを彼女達が背負わなければならないほど、今の世界は狂気に満ちていて、
何もかもがおかしくて、捻じ曲がっていた。その中でももっとも特異な存在であるところの軍隊に身を置いている以上、それ相応のものが
要求されて然るべきである。もしクリスを実戦に連れて行き、撃てという命令に背いた場合。幸いにして部隊長がミーナであるこの基地に
おいては、銃殺刑が下ることなどそうそうない。あったとしてもそれはミーナの命令ではなく、もっとより地位の高い人物からの指示が
下ったときである。そしてミーナの後ろ盾はブリタニア空軍でもカールスラント空軍でもない、501基地の置かれたブリタニアの首相、かの
名高いチャーチルだ。彼がウィッチに、代価として死を要求するような場面は今まで一度もなかった。そしておそらく、これからもないだろう。
つまるところ命令違反云々については、まだ目をつぶれる範囲と言っても悪くはない。あまり声を大にしては言えないが、あくまでそれが問題と
なるのは表向きだけであり、本質的な問題はもっと別なところにある。
――戦場で引き金を引くことを、ほんのわずか、刹那の間躊躇った場合、それはすなわち自分の死と同義であると考えてまず間違いはない。
戦場の最前線で戦うということは、それほどまでに高度なことが要求される。一瞬の逡巡さえも許されず、ほんのわずかな情報と時間ですべてを
判断する、すべてがイレギュラーの世界なのだ。そんな中にあって、引き金を引くという一番重要な行為を一瞬でも躊躇えば、そこに軍人としての
魂は存在しない。軍人でない人間が戦場に投げ込まれればどうなるかなど、言うまでもないことであった。
つまりはクリスに求められているのは、そういうことである。人を撃つ決意、人を殺す決意。未来に希望のある命を、この手で絶つ度胸。
そしてもうひとつ、人を殺すことと同様に、自分が殺されるかもしれないという覚悟。自分が死を受け入れていないにも拘らず、人に死を
強要するのは、生物としてあってはならないこと。人を殺すのだから、たとえ相手が自分という『人』を殺しても、それについて文句を言う
ことなどなにもできない。それを受け入れ、自らの死を覚悟し、そして同時に人の命を絶つという狂気を実行する決意を持つ、それが
軍人に要求されることであり、そして現在のウィッチたちに求められている一番の条件であった。
「敵はいつでも相対的なものだから。昨日の敵が今日は友になるかもしれないし、その逆かもしれない。今がちょうど、その『逆』の時なんだよ」
――――人を撃つ自信はあるか。人に撃たれる自信はあるか。
芳佳がそう問うと、クリスはうつむいて口ごもってしまう。
わかりきっていたように芳佳は苦笑を浮かべて、そしてクリスの頭をまた優しく撫ぜる。
「大丈夫だよ。その時が来たら、ちゃんと教えてあげる。それにそういうのって、求められれば自ずとついてくるものだから」
「……はい」
すこし迷ったような顔を浮かべながら、それでもクリスは笑顔を浮かべてうなずいて見せた。訓練の成果は上がっているのにどうして、なんて
馬鹿げたことを考えた自分を恥じつつ、非常に力のある言葉を受け取って、クリスは再び宮藤芳佳という人物の偉大さを思い知ったのだった。
- - - - -
その日の夕方、午後の訓練を終えた芳佳とクリスはいつも通り風呂で雑談に興じていた。欧州には相手の背中を流す、という風習はないが、
芳佳の持ち込んだ「ソレ」は瞬く間に広がり、そしてクリスもまた例外なくそれを当たり前のように享受している。芳佳がクリスの背中を
洗ってやると、気持ちよさそうに目を細めた。
「……いつかクリスちゃんのこの背中も、もっとおっきくなるのかな、なんてね」
「はい?」
「もっともっと、高く飛べるといいね。ううん、飛ばせてあげる」
芳佳が少しだけ、意味の深そうな言葉をぶつぶつと――クリスにはその意図がいまいちつかめず、首を傾げてしまう。すると芳佳は
砕けた笑いの後、クリスに一言、おしえてあげる、と告げた。それは渓谷突破作戦が立案された時の日の夜、就寝時間を過ぎた頃の
話。
「こんな時間に、珍しいのね?」
「どうした、芳佳」
翌朝はいつもより輪をかけて早いというのに、芳佳は司令室に顔を出していた。同じく次の日のことを考えているのか考えていないのか、
ミーナやゲルトルート、美緒は作戦についてより細かく掘り下げているところであった。芳佳は少し表情に憂いを湛えながら、三人の取り囲む
デスクの方へと歩いていく。――たまに出入りする程度の場所のため芳佳自身もあまりなれない場所のはずであったが、その歩き方はまるで
自分の部屋のようだった。それほどまでに、彼女の心のうちで渦巻いていた『モノ』は芳佳を揺さぶって仕方がないのだ。
「……あの。今回の攻撃目標なんですけど」
「ああ、それがどうかしたのか?」
まるでわからない、といったように首をかしげる美緒に、芳佳は戸惑いを隠せない。さも当たり前のことのように、芳佳は三人に尋ねた。
「あ、あの……ミーナさんもトゥルーデさんも坂本さんも、その……『人』を相手に戦うこと、怖くないんですか?」
すこしだけ、きょとんとした顔を浮かべる三人。互いに見合わせてから、それでもやはり、理解できないという表情で首をかしげた。
「それがどうかしたのか?」
「そりゃあ恐れの類が無いといえば嘘になるが、少なくとも迷いはないぞ?」
「渓谷突破だなんて無茶を考えるほどだから、あなたなら心配ないかと思っていたけれど」
芳佳に向けられる、奇怪な視線。だが逆に芳佳も、まるで理解できない、といったところであった。――人を、撃つのだ。これまで
ネウロイに向けていたはずの銃口を、今度は同じ人間に向けなければならない。共に手を取り合い、共に学び、共に歩み、共に遊べる……、
同じ『ヒト』に向かって、殺意を向けなければならない。それがいかに狂気じみたことか、芳佳にはそれさえ理解できなかった。そんな
現実から遠く離れた感覚を、あいにく芳佳はそのとき、持ち合わせていなかった。
「私にはわかりません……」
「連中によって正当な理由なく人が殺されたんだ。連中にはそれ相応の罰を受けてもらう必要があるだろう」
「因果応報、とはまさにこのことだ」
ゲルトルートの言葉を美緒がフォローし、芳佳に当然のように投げかける。だがそれでも、やはり芳佳には理解できなかった。何故
『ネウロイ』という共通の敵を持っていながら、そして『ネウロイ』に対して共に手を携えて戦った同じ人類でありながら、お互いに争い
あわなくてはならないのか。自分には、そんなことのために得た翼などないはずだったし、そんなことのために握った銃も無い。あるのは
ただ、人々の平和を打ち壊す『脅威』を貫くための意志だけだ。
しかし容赦の無い言葉は、次々と芳佳の心に突き刺さる。
「ならば、次に貫くべきものは『ヒト』だ」
「さっきもトゥルーデが言ったでしょう? 私たちを脅かす存在がそこにあるのなら、私たちの任務はそれを打ち砕くことよ」
確かに報復というものには、常に連鎖という高いリスクが付きまとうのは避けられない現実だ。とはいえ、相手に図に乗らせることは
混沌の更なる加速を生んでしまい、どの道混沌が渦巻くのも避けられないと言えよう。どちらにしろ狂気が始まるのであれば、そこに終止符を
打つには『抑止力』が働くほか無い。通常、人間というものは同じ人間を相手に殺意を実行へ移すことなど、冷静な状況下ではできようが
ないだろう。すなわちそれを成し得るのは、常軌を逸した『異常』な理性、捻じ曲がった理解、或いは爆発的な感情、その何れか以外には
通常であれば有り得ないのだ。であれば、本来歯止めの利くべきところに歯止めが利かないような『危険因子』が自らと対立している、その
事実を突きつけてやることは、相当な抑止力となるはずである。更にそれが、ひとつのいわば「要塞」さえも打ち砕くほどの力を持つと
あれば、少なくとも表立った行動は控えるようになるだろう。――軍隊、すなわち『人と争うための組織』という、存在そのものが異質である
この場所において求められるのは、そんな『異常』であった。
だが、芳佳がこの場所に求めたのは理想であり、救いであり、希望である。人類共通の敵との戦争を終わらせるため、平和な世界を取り戻す
ため、これ以上誰も死ななくてもいい世界のため、これ以上誰も泣かなくてもいい世界のため。宮藤芳佳とはそれを成し遂げるためにこの
地へ赴き、銃を握った。異質の地、かつ異常な集団である軍隊に、彼女は人間本来の理性と、人の営みを求めた。間違ったものを求めれば、
いつか破綻が来るのは至極当然のことであって、そして芳佳はまさにそれに直面しているのだと、この時になってようやく気がついた。
それはたとえ自分に明らかな敵意を向けるミーナを相手にしても、或いは行く行くは命さえも狙っていたかもしれないマロニー一派を相手に
してもなお気づくことの無かった、軍隊という場所の『本質』。ゲルトルートやミーナ、美緒といった『経験者』たちは至極当然のように
理解していた、この地に求められる『狂気』。そう、戦争が狂気である以前に、戦争以外の使い道があくまで体裁上のものでしかないこの
軍隊という組織自体が、まず狂気の塊なのである。
――人を、殺す。その事実を突きつけられてなお、平然としていられるミーナたちを前に、芳佳は初めてそれを直接的に感じ取った。
そしてそれと同時に、目の前で首をかしげる三人に対して、初めての感情を抱く。
――――――怖い、と。
「……私、わたし、は……」
渓谷を抜けよう。そう提案したときは、ただ作戦の成功のことだけを考えていた。だが冷静になって考えたとき、自らの攻撃対象が
何であるかを悟った。……相手は人だ。これまでの戦争とはまったく意味合いが違う、醜悪な戦い。ネウロイとの戦いでは正義を堂々と
掲げられたであろう物を、相手が人に代わっただけで、正義という定義そのものが揺らいでしまう。何故ならば戦う相手もまた自らと
同じように家庭を持ち、親友を持ち、仲間を持ち、そして人間としての営みを持っている。特に大好きだった父をほんの幼い頃に失った
辛い過去を持つ芳佳であれば、その辛さは人一倍よく判るものだった。
「――無理ならば、出撃を強要はしません」
一息ついたミーナが、鈍く告げた。ミーナの、精一杯の譲歩だった。
戦場で引き金を引けない兵士とはすなわち、ただの障害物である。その呼び名は実に様々だが、足手まといと呼ばれるのが一般的だ。
即ち当時の芳佳では、たとえ夜間低空侵攻の訓練において右に出るものがいないと言えど、出撃できるほどの実力は無いということで
ある。
……言うなれば、戦力外通達。芳佳にとってこれ以上辛いことはありようもなかったが、だからといって引き金など引けるはずもない。
ミーナの考えがわからないでもない芳佳は、嫌です、とも、わかりました、とも……どちらとも返答ができなかった。それにミーナも、
『出るな』と言っている訳ではない。あくまで出撃が前提だが、どうしても撃てないと言うのであれば、その時は待機も止む無し、と
そう言っている。即ち軍隊組織としては相当なイレギュラー、出撃免除の選択肢を用意してもらえたことになる。ミーナにとって芳佳に
してやれる、最大限のやさしさであった。
「連中の暴走を許せば、きっともっと大勢が傷つく羽目になるぞ。それを見てなお、お前は理想を語れるかな」
美緒がそう告げると、芳佳は更に何もいえなくなる。……これ以上、誰かが傷つくところなど見たくない。だが、もし誰かを傷つける
のがほかの誰かであれば、そのとき自分はその誰かを傷つけることができるのか。至極まっとうな美緒の意見に対し、正反対を向く
自らの想いに、芳佳は頭を抱えていた。
「とにかく、明日の訓練はお前が指導してくれなければ誰も教えられん。実戦については、ミーナの話もある、出られないようなら
出なければいいだけの話だからな。今は皆のために、お前にできることを精一杯やってくれ」
最後にフォローを入れたのは、少しだけ暖かな笑みを浮かべたゲルトルートだった。芳佳に数え切れないほどの恩がある彼女に、
芳佳に対してあまり強くものを言えるほどの立場は無い。階級や経験で言えば当然言うべきことは言うべき立場にあるわけだが、しかし
芳佳をこの上悩ませるような命令や指摘は、今するべきではなかったし、彼女自身にもできなかった。だからせめて、ほかの皆が生きて
帰ってこられるように。たとえ踏ん切りがつかなくとも、皆を生きて帰すため、手をとって前を歩いてやることは、今の芳佳ならば
できるはずだ。芳佳自身の実力は決して心配することの無いところまで来ているため、後は本番でその力を発揮できるかどうか、
それだけの話。ならば、ひとまずその話は横においておくとして、もっと目の前にあることに目を向けよう。そんなゲルトルートの言葉は、
芳佳の目を逸らすにはそれなりに効果があったらしい。
「……もう少し、考えてみます。とりあえず、明日の訓練は予定通りやります」
迷いながらもそう返事をすると、ミーナは少しだけ満足したように笑みを浮かべた。それから芳佳は退室し、頭を冷やす意味もあって
水をコップにめいっぱい注いで、一気に飲み干す。大して気分も落ち着くことは無かったが、それでも今この迷いはあるべきではないと
して、頭を何度か振りながら自室へ戻ったのだった。
――結局、渓谷へ向かうあの空でも、芳佳は踏ん切りをつけずにいられた。聞いた話によれば、それはルッキーニやサーニャたちも
同じであったという。むしろあの場において、本当に決意ができていたのは、それこそ片手で数えられる程度のものであっただろう。
ゲルトルートが言うには、『夜』に芳佳と話していた三人に加え、エーリカは最低限覚悟はあったようだし、なんだかんだ言ったところで
シャーロットも必要があるならと躊躇いはなかったらしい。一番不安としていたのはペリーヌと芳佳、それからクリスだったようだ。
ペリーヌは根が真面目なだけに、戦場でも相手のことを考えてしまうのではないか、と危惧していたらしい。棘の中に見え隠れする優しさを
見抜いている芳佳にとっては、手に取るように判る話だった。芳佳は言わずもがなで、クリスも言うまでも無いだろう。リネットや
ルッキーニたちも心配ではあったが、芳佳と違って彼女たちはこの地が軍であると承知した上で日々を過ごしている。たとえ命令と在らば、
逆らいたくもなるような命令であったとしても絶対服従で逆らえぬ、という最低限のルールは遵守していた。それはおそらく、自らの
親友が仮に命令違反で処罰されることになったとしても、そしてその処罰の『引き金』を引くのが自分であったとしても、彼女達ならば
従ってのけるだろう。それが、表面上では見えない彼女たちの『真価』であり、そして軍人たる所以である。ただ、そこには迷いの時間が
どれだけでも許されている。しかし戦場にあって逡巡の時間はたとえ一瞬であっても用意されてはおらず、敵の姿を認め次第、条件反射的に
指が動くようでなければ、それは即ち自分の死と同義といえよう。そこまでの覚悟があるかどうかは、少し疑問の残るところであったそうだ。
だが芳佳が渓谷突破を提案し、なおかつ皆を引き離して先行したのは、ある種の救いと言えるらしい。それはミーナの言ったことで
あったが、芳佳、ゲルトルート、美緒を除くほかの隊員たちは、例の『光学兵器』が出現してようやく現地に到着した。つまりは直接
『ヒト』と戦ったのは先行した三名のみであり、ヒトを狙い撃つ現場を見られないという点において、芳佳の負担は幾分か軽減されて
いただろう。芳佳の意識しうるところではなかったかもしれないが、それは多少なりとも芳佳のメンタルに影響を及ぼしていたことは、
間違いの無い事実である。
――そして渓谷が開け、芳佳の視界に要塞の全景が飛び込んだとき。美緒にもゲルトルートにも悟られることは無かったが、芳佳には
あるひとつの感情が芽生えていた。
人を殺すことに対する恐れ――それを遥かに上回る、怒りの感情。
そこに鎮座していたのは、ただ全てを打ち壊すためだけに存在する『力』。固定されていない誰かを傷つけ、更に命を奪い取るためだけに
築き上げられた『悪』。そしてその絶対悪を守らんとする、自らへ向けられた明確な『殺意』――。それらを一目見たとき、芳佳の心は
不思議とすっと落ち着いて、同時に今まで渦巻いていた悩みの分の怒りがふつふつと吹き出してきた。
今まで触れる事の無かった部分。今まで見たことの無かった面。人間の欲の形、人間の醜い望み、人間の醜悪な面、汚れた部分。今まで
自分が信じてやまなかった、人間が本来持っているはずの『正義』が、音を立てて崩れ始めた瞬間だった。人はここまで人を憎み、恨み、
そして殺意に芽生えることができる、それを目の前に広がる光景を通して知ったとき、芳佳の中で何かが『死んだ』。そして次に『生まれた』
ものは、芳佳の中で初めて認識し、そして今まで自分には遠く縁の無いと思っていたもの。
・・・・・・・・・・
……芳佳が本来、『持ってはいけなかった』もの。
明確な、人に対する、殺意だった。
「ただひたすらに、全てを破壊するためだけの力。そんなものを、あろうことか人間が生み出した。……そんなの許されていいわけがない」
クリスに背を洗ってもらいながら、芳佳はなるだけ落ち着いてそう口にする。クリスに必要以上の不安を与えないよう、それは
比較的軽い口調で述べられていたが、だがクリスにもひしひしと伝わった。
あの時芳佳の胸の内で死んでいったのは、一種の「希望」だった。即ちそれが失われたということは、ある種の絶望を味わった事に
なる。そしてそれは恐らく、今でもずっと引きずっているモノ。
「人はこんなに穢れられるんだって、あの時初めて知ったよ。……そして自分も、同じように穢れたんだ、ってね」
どれだけ明るく話そうとつとめても、決して超えられない壁がある。誰だって、とうに失われてしまった希望についてなど、進んで
話したいとは思わない。芳佳もまた、理想だけで空を飛んでいられた頃が懐かしくて、そして――――まったく以ってきれいさっぱり
血に塗れてしまった自分の両手が、恨めしくて仕方が無かった。『敵』が誰かに対して明確な殺意を抱いていたように、芳佳もまた、
あの地に蠢く全ての人間に対して、等しく殺意を抱いていた。誰かを傷つけんとする邪悪な力から、誰かを守るために……、そう言えば
人聞きはいいかもしれない。とはいえ、結局のところ誰かを傷つけている事実に変わりは無い。
「だから、私はどれだけ自分が汚れても、どれだけ自分が恨まれようとも、戦い続けるって決めた」
そんな狂気に、ほんのわずか、一度瞬きするだけの時間であったとしても、早く幕を下ろせるなら。命の灯火が消えることの悲しさは
当たり前ながら、それに加え―――
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
灯火を消してやりたいと望む思いが生まれることの悲しさが、これ以上広がらないように。
――そんなイカれた世界が、少しでも早く終わるように。そのためだったら、いくらでも自分は『異質』の中に身を投じてみせる。
それがきっと、一人でも多くの『罪の無い人』を救うことになるから。――罪の無い誰かを傷つけようと、あるいは消してしまおうと
する力から、誰かを守れるから。
「きっとクリスちゃんにはまだわからないと思う。けどね――」
背中を流してくれるクリスの手を止めてまで、芳佳は振り返った。そして、戸惑いを隠せないクリスの頬にそっと手を触れて、
優しい笑顔を浮かべて告げた。
「――迷わなくて、大丈夫。私たちは、間違ってなんかいない」
……いずれ本格的に戦うことになるであろう『相手』。だがそれは、ほぼ間違いなく、私利私欲のために世界を利用せんとする
『どす黒い』連中であろう。保証されている、といっても過言ではないほど、それは確実なことであった。即ち罪の無い大勢の人類は、
自分の権利、地位、名声、名誉、そういった穢れたモノを求める醜悪な『ヒト』を前に、再び存亡の危機に晒されようとしている。
芳佳はあの日、それを一瞬にして理解した。ならば自分たちがとるべき針路はただひとつ――『守るために飛ぶ』こと。ネウロイを
前に全人類が危機に晒されたように、そしてそのとき、守るために大空を駆けたように。今度もまた、守るために大空を駆け、背後に
いる何億、何万という人々のために戦う。それが彼女たちに残された、唯一の道であった。
本当は、そんなことを理解する機会など無いのが一番の理想である。
――だが、そんな理想を語れる心は、もう芳佳の中では生きていなかった。
「きっといつか、クリスちゃんもわかる日が来ると思う。そしたら、今度は私と一緒に飛ばせてあげる。
『本当の戦いの空』を、一緒に――ね」
微笑を浮かべてクリスの頭を撫ぜる。少しだけ芳佳に畏怖の念を抱きながら、それでもクリスはひとつ、うなずいて返して見せた。
実戦に出撃させてもらえない、その意味がどれほどのものか。逆に言えば、実戦に出撃するとはどれだけ重みのあることか。クリスは
それをなんとなく実感して、恐れを感じる一方で、芳佳に向ける眼差し、そこにある尊敬の色を尚濃くさせた。
……そして同時に、本能で感じ取る。今まで、『ものすごく強い人』であって『親友』であって、『最終的な自分の目標』であった
宮藤芳佳という存在。それが、本当は手の届かない遥か遠く、本当は自分の踏み込んではいけない地に立つ人――すなわち、自分が
本来、求めてはいけなかったものだ、と――なんとなく、気づいてしまった。
「ごめんね」
クリスが背中の石鹸を洗い流していると、不意に芳佳が口を開く。なにがですかと返せば、少しだけ落ち込んだ声が返ってきた。
「いや、こういう話はもっと後にするべきだったかなって。今言っても、躓きになっちゃうだけだよね」
久々に失敗した、といった様子だった。感情が高ぶると、つい余計なことまで口走ってしまう。昔から変わらない芳佳の癖、本当は
昔はそれを笑っていられたはずだったが、口走る内容が戦争の狂気について触れた言葉であれば、それは笑って流せる内容ではない。
芳佳は小さくため息をついて、もう一度謝った。どういう意味かようやく理解したクリスは、あわてて首を振りながら返事を返す。
「そんな、そんなことないです! 私、なんで出撃させてもらえないんだろってずっと悩んでたんですけど、それがどんなに無責任な
ことか、今やっとわかって……感謝してます!」
その気持ちに、偽りは無い。確かに芳佳に少しばかり怖いという思いを抱いたのは事実であったが、それでも芳佳は変わらず親友で
あり、教官であり、そして目標なのだ。――たとえそれが、たどり着いてはいけない地だと気づいたとしても。一度憧れてしまった
それを手放せるほど、クリスは器用ではなかった。
「だから、謝らないでください。私には足りないものがなにかって、よくわかりました。今はまだ怖いけど、いつか宮藤さんと一緒に
戦えるように、決意ができるように、がんばります!」
クリスが意気込んで決意を口にすると、芳佳は決まって元気になって、それじゃあ一緒にがんばろう、と明るく笑ってくれた。クリスは
そんな芳佳の笑顔が大好きで、いつまでも見ていたかった。どこまでもついていきたくなる、いつでも一緒にいたくなる、そんな彼女の
不思議な魅力に、クリスもまた魅せられていたのだ。
――だが、返ってきたのは予想外の反応。
「……うん。がんばろう」
少しだけ悲しそうな、芳佳の落ち着いた声。あれ、とクリスが首をかしげる。なにかおかしなことを言っただろうかと迷っていると、
芳佳の肩がぴくんと震えた。
「――そ、そっか! うん、がんばろうね! クリスちゃんが一人前になれるように、私もがんばるから!」
今度こそ、太陽のような笑顔が返ってくる。クリスの大好きな笑顔、思わずぱあっと明るくなる顔を、自分でも感じ取った。
けれど、今の「しばらくの間」。そして芳佳の、悲しそうな声。なぜ芳佳が今まで実戦に出すことをためらい続けてきたのか、クリスはその
本心を、あいにく悟ってしまった。
――そもそも芳佳は、クリスにそんな『決意』をしてほしくない。血に塗れる覚悟なんて、そして『殺してやると思わされること』なんて、
経験しないことが一番。たとえある種の理想や希望を失った芳佳といえど、自分の妹のように可愛い自らの教え子を血で汚すことなど、
許せるはずもなかった。芳佳は自分でこの場所に来てしまったが、恐らく美緒もまた、芳佳にはこんなところまで踏み込んでほしくは
無かったであろう。
教え子として、クリスが芳佳にしてやれることはなんだろうか。考えても、答えは出ない。実戦に出ないのが一番いいのか、それとも
芳佳の背中を守れるほどのエースに成り上がるのが一番いいのか、どちらがいいのかは、今のクリスにはわからない。そしてきっと、その
答えを知るときは永遠にこなくて、ただ芳佳の胸のうちだけにありつづけるのだろう。
だから。せめて今この瞬間だけでも、芳佳と一緒に笑っていられるように。幸せな時間を、分かち合えるように。
「はいっ! おねがいしますっ!」
ぎゅっと芳佳に抱きついて、笑って見せた。――きっと何があっても、笑顔がそこにあれば、芳佳も笑ってくれるから。二人はそれから
そんな話などなかったかのように、またいつものように日常の話に花を咲かせた。
――――数日後。正体不明の兵器の試射を行う戦闘機隊の姿が確認され、再びヒートレベル・フォーが言い渡された。その日芳佳は
エーリカを伴って出撃し、そして――クリスもまた、戦場に赴いたという。『人間同士の戦争』が如何なるものか、少しずつ、少しずつ。
ストライクウィッチーズ隊に、その『本質』が忍び寄りつつあった。
――fin?