その名前を口にして
なんとなしに寝返りをうつと年代物であろう二段ベットがキシリと音を立てた。
どれ位古いんだろうなー、100年くらいかなーなんてことを考えてみたりするが、
答えなど出るはずもないし別に調べる気も起こらない。
大切なのはあくまで寝心地のよさや、それ自体を気に入るかであって、そしてなにより、こうして隣、
それも私の胸の辺りで胎児のように体を折り曲げて退屈そうに寝ているサーニャが、それをお気に召しているかだ。
そういった苦情はサーニャの口からは出たことがないから、おそらくはそれは大丈夫なのだろう。
サーニャはどこでも寝てしまうから、どうでもいいのかも知れないけれど。
「退屈だなー」
そんな大して意味のない考えを払拭するよう発したその声は、二人で過ごすには十分すぎる広い部屋に、
思った以上に大きく響き渡った。
部屋が石造りで出来ているせいだろうか? 特別大きな声を出したわけでもないのにやけに大きく響き渡る。
「そうね、エイラ」
続いて、サーニャの声。サーニャは先ほどと同じ格好で、顔だけ動かして私の顔を見つめた。
その少し眠そうな顔はとても魅力的で、何時までも見つめていたくなる。
そういえばサーニャとこうして二人で眠るようになったのは、いつのことだっただろう?
1年も経っていないはずなのに、もうそれははるか昔の出来事のように感じた。
といっても、夜間哨戒明けのサーニャが私のベットに倒れ込んでくる時なんかは未だにびっくりするし、
ドキドキするし、その寝顔を見るときは何とも言えない幸せな気持ちになる。
きっと一生このままなのだろうなーと、最近では諦めの気持ちも出てきていたりする。
「まあ、贅沢な悩み……ってやつなんだろうな」
「? ……どうしたの、エイラ?」
「な、なんでもないぞ!」
どうやら声に出ていたらしい心の呟きをごまかしながら、慌てて私は首を窓の方へと向けた。
ベットからでは窓の外は見えなかったが、日の入り方から晴れではないことがハッキリと分かった。
耳を澄ませてみるとご丁寧にシトシトという雨音まで聞こえてきたから、きっと空は生憎の雨模様に違いない。
「はぁ……」
思わず大きなため息がこぼれ出た。
今日は私もサーニャも久々の非番で、サーニャと二人で街にネコペンギンを買いに行く予定だった。
間違いなく、絶対に、確実に、誰がなんといおうと正真正銘のデート。
サーニャを誘ったときも凄く自然に誘えたし、いつぞやと違って他のメンバーの外出も被っていない。
なにより昨日の夜にしてみたタロットカードの結果が、『審判』の正位置だったのだ。
私の占いは非常によく当たるので、これは絶対にいいことあるなーと、内心すごくウキウキしていた。
「してたのにさ……」
恨めしそうにもう一度だけ窓の方を見つめてみる。何度見ても結果は同じ。
雨の音はシトシトシトシト…………
なんだかさらに雨足が強まったかのように聞こえる。
もちろん出かけられないほどひどい雨ではないのだろうが、サーニャが濡れて風邪でも引いたら大変だし、
こんな雨では買い物には不向きだろう。あのぬいぐるみは思っている以上にでかいのだ。
と言うわけで、なんだかんだ理由を付けて買い物は中止。
折角の非番だというのに二人でゴロゴロしていたわけである。
なにが私の占いは良く当たるだ。昨日の自分に文句を言ってやりたいぐらいだ。
まあ、サーニャと二人でこんな風に過ごすのもけして悪くはないんだけど……
「エイラ、今度は顔が赤いよわ」
「えっ? ホントか?!」
サーニャにそう言われて、私は慌てて深呼吸を繰り返す。
今度は声ではなく顔に出ていたらしい。私ってもしかして気持ちが顔に出やすいのか?
そんなことを考えつつ、何度か深呼吸を繰り返すと、なんだか顔の火照りも収まったよう気がした。
「け、けど、本当に暇だな」
「ふふふっ、さっきからそればっかり」
話題を逸らすよう呟いた言葉にサーニャはそう言ってほほえんだ。
そのほほえみが可愛くて魅力的すぎて、私は曖昧に笑いながら体を起こした。
なにげなく当たりを見渡すと、机に広げられているタロットが目についた。
片づけていないので、配置は昨日の夜のまま。ご丁寧に『審判』のカードがこちらを見つめている。
タロットでもしようか、そんな考えが一瞬頭によぎる。
「…………」
どうにも気分が乗らななかった。なんだかもやもやして気持ちが身に入らない
そんなときに無理矢理占ってみても絶対に当たらないことを、経験上私は知っていた。
「サーニャ、なんか退屈だし、一緒にサウナにでも行こうか」
こんな気分の時にはサウナが一番だった。
気分転換にもなるし、その後の水浴びはこんな気持ちをあっという間に吹き飛ばしてくれる。
雨が降っているのが気になるが、すぐに戻れば大丈夫だろう。
「そうね、行きましょう、エイラ」
サーニャはそう言うと、すっと体を起こす。そんないつもと変わらないごく普通のやりとり。
だけどそんなやりとりの中に、今更ながらそれが気になったのは、きっと理由なんて無い。
しいていうならきっとこのパッとしない天気のせいに違いない。
「……エイラ?」
「なあ、サーニャ。もう一度私の名前呼んでみてくれないか?」
「? ……どうしたの、急に?」
サーニャが不思議がるのも無理はないだろう。
でもそこは勘弁して貰えないかな。ちょっとした好奇心なんだ。
「まあいいから、いいから」
「おかしなエイラ」
サーニャは不思議がりながらも、もう一度名前を呼んでくれた。
それは何度聞いても飽きない、いつまでも聞いていたい声。
「んー。うん、やっぱりだ!」
「なにがやっぱりなの?」
何をしているのかよく分からないと行った表情のサーニャ。
まるでクエスチョンマークが頭の上にたくさん浮かんでいるかのようだった。
「ごめんごめん。あのさ、サーニャってさ、私を名前を言うときのアクセントが他の人と違うんだよ。
みんなは普通に『エイラ』って言うんだけど、サーニャはさ、『イ』の時に少し高くなるんだ。オラーシャ訛りなのかな?」
「えっ、本当? 自分じゃよく分からないけど……」
サーニャはそう言うとブツブツと私の名前を呟き始めた。
なんだか……ちょっと照れくさい。
「直した方がいいかしら?」
「えっ、別に構わないぞ。ちょっと気になっただけだから」
「でも今、気になったって……」
サーニャは悲しそうな顔をすると、アクセントを確認するかのように『エイラ』と呟いた。
「ああ、ごめん。そ、そう言う意味でじゃないんだな。
気になったっていうのは……あの…その……だから…………」
「だから?」
「わ、私はサーニャに名前で呼んで貰えるのが大好きで……
だからさ、何で好きなのかなってちょっと気になったんだよ。うん、そうだそうだ。そうなんだな。」
「そうなんだ……」
「う、うん」
サーニャのそんな顔にきっと慌ててしまったのだろう。そうでなければこんな言葉がつらつらと出てくるはずがない。
そんな普段なら絶対に言わない言葉を言い終えると、その反動で、思わず顔が赤くなった。
心臓の鼓動がやけに早く感じるし、なんだかのどが渇いてくる。
私は気持ちを落ち着かせるように、大きく一回深呼吸した。
「それにサーニャみたいに私の名前を呼ぶのは、サーニャしかいないから。だから、直さないでいいよ」
「……分かった。じゃあ、直さない」
サーニャの悲しそうな顔が微笑みに変わって、私はようやく落ち着くことができた。
私に幸せを与えてくれる、そんな微笑みだ。
「ねえ、エイラ?」
「な、なんだ?」
「私も……エイラに名前で呼んで貰えると……嬉しい」
「さ、サーニャ……」
今度は先ほどとは別の意味で顔が赤くなる。
こんなに何度も何度も顔を赤くして、一体今日の日だ?
「ねえ、エイラ。私の名前呼んで?」
「えっ……」
「呼んで」
有無を言わさないその言葉に、私は思わず息を呑んだ。
私はサーニャに言われたとおり、ごく普通に、何時も通りに言おうとした。『サーニャ』と。
だけど声に出たのは『サ』の部分だけで、どうにもその先が口に出ない。
何百何千と口に出している名前が、さっきも口に出してたその名前が、なぜだかとても重く感じた。
それはいつの間にかにそれを重ねていたからだろうか?
あの絶対に言えない言葉の代名詞として『サーニャ』という名前を。
私が『サ』という発音を何度も何度も繰り返している間、サーニャはじっと私のことを見つめていた。
何も話さず、もちろん私を急かすこともなく、ただじっと私を見つめていた。
シトシトシトシトと雨音だけが部屋の中に響き渡った。
「サ、サーニャ……」
ようやく言えたその名前はなんだかひどくおかしな発音だった。
初めてあって話したときでさえ、もっとまともだったのではないかと思う。
「エイラ」
それでもサーニャは心底嬉しそうに笑いながら、そう答えてくれた。
それがなんだか嬉しくて、もう一度、今度は何時も同じようにそれを口にした。
「サーニャ」
「エイラ」
聞き慣れた自分の名前なのに、何度も言われている名前なのにすごく満ち足りた気持ちになった。
それをもっと味わいたくて、もう一度、もう一度だけと思いながら口にする。
「サーニャ」
「エイラ」
名前を呼ばれたら、呼び返す。まるでオウム返しのような言葉のやりとり。
もしこの場にみんながいたらどう思うだろう?
やっぱりからかわれるのだろうか? それとも、大きなため息一つつかれて呆れられるのだろうか?
そんな他人を見るような考えが頭の中によぎる。
でも……
それでもサーニャに名前を呼ばれるのが嬉しくて……
私を見ていてくれることが幸せで……
だからサーニャが私の名前を呼んでくれたら、思わず答えてしまうんだ。
「サーニャ」って。
私のこの幸せが、ほんの少しでもあなたにも伝わるようにと気持ちを込めて。
「サーニャ」
「エイラ」
もう何度繰り返したことだろう。
それでも足りなくて、聞きたくて、何度だって続けてしまう。まるで何かの中毒のよう。
「サーニャ!」
「エイラ!」
だんだんと声が大きくなっているのがハッキリと分かった。
私もサーニャも普段なら絶対にすることはない大声。もしかしたら、基地中に響き渡ってるかも知れない。
でも、それでも、止められないし、止める事なんて出来ない。
「サーニャ!!」
「エイラ!!」
誰に急かされるわけでもないのに、だんだんと早口になっていく。
少しでも早くその声が聞きたくて、自分の名前が聞きたくて……
「サーニャ!!!」
「エイラ!!!」
でもそんなオウム返しも……
「サーニャ!!!!」「エイラ!!!!」
不意に私達の声が重なることで、あっけなく終わりを告げた。
「あっ……」
「ん……」
声が重なったのはきっと偶然。
合わせようとしたわけでもなければ、終わらせようとしたわけでもない。
サーニャだってきっとそうに違いない。いや、多分……きっとおそらくは。
「…………」
「…………」
さっきとは裏腹に、今度は私もサーニャも言葉を発することはなかった。
そもそも何を話していいのか分からない。募るは、もどかしいほどの恥ずかしさばかり。
だんだん顔が赤なってきて、熱を帯びてきているのがハッキリと分かった。
私の目に狂いがなければ、それはきっと……サーニャも同じで……
「…………」
「…………」
何も話さず、何も語らず、ただただ互いの赤い顔を見つめ合う。
そんな空間に響くのは外から聞こえるシトシトという雨音ばかり。
それがなんだか妙におかしくて……
「あはは!!」「ふふふっ!!」
やっぱり同じタイミングで、クシャリと二人で笑いあった。
「サウナ……行こっか!」
私はベットから起き上がると、スッとサーニャに手を伸ばした。
サーニャは嬉しそうにうなずくと、私の手を取った。
サウナに行くためにモゾモゾと部屋着を着込む。
もやもやした気分はとうに吹き飛んで、なんだか満ち足りた気持ちでいっぱいだった。
シトシトという雨音ももう気にもならなかった。
着込み終わり、ふと机を見てみるとそこには昨日と同じタロットカード。
私はサーニャに気づかれないように笑うと誰に言うわけでもなく、心の中で呟いた。
な、言っただろう? 私の占いは……良く当たるんだ。