じゃじゃ馬ならし







 白馬の王子さまに、憧れていた。





「オラーシャ陸軍より救難信号! 距離北北東五〇キロ、現在多数の小型航空ネウロイと交戦中、全滅は時間の問題なりとのこと!」
 司令部テントを通信兵の金切り声が満たし、俺は慌てて立ち上がる。
「なんだって!? よし、今すぐ出るぞ!」
「待てっ、管野直枝少尉」
 仮設テントを出ようとして呼び止められた。
 ふりむけば、臨時司令部となったテントの奥で、股を広げて座った男が俺のことをにらんでいる。遣欧艦隊第二五航空隊司令、五味少佐。いかめしい顔つきと沈思ぶった態度だけで出世した、空も飛べないおっさんだ。
「出撃は許可しない。貴官は我が部隊の現状を認識しているのか?」
 まるで自分が世界の中心にいるかのような、厳かで揺るぎない口調。その重圧を跳ね返すように、俺は叫ぶ。
「ああ、わかっているとも! 揚々とペテルブルグを出征した部隊は、内陸に食い込んだところで物資が尽きて立ち往生! バルト海を襲来するネウロイに輜重部隊はリバウにすら近づけず、陸揚げされた物資も冬将軍に阻まれて届かない。武器弾薬燃料すべて尽き、もう二週間も米の一粒も届かない状況だろうが!」
「正しい理解だな、管野少尉。なら弾も持たずに救援にむかったところで、犬死にするだけだということもわかるだろう」
「冗談じゃねぇ、だったらここで飢え死にしろってのかよ! 俺はまだ戦えるんだ、弾がなければ刀で斬る、刀が折れればぶんなぐって落としてやる! 少なくとも救難信号を出した部隊には戦闘能力が残ってるんだ、合流できれば現状を変えられるだろうが!」
「……聞き分けろ管野少尉。貴官らウィッチは戦力である前に国民の憧れなのだ。みすみす死なすわけにはいかないんだよ」
「ふざけんなっ! 俺はお飾りでいるんじゃねぇ!」
 顔中を口のようにして叫んだ。けれど所詮小娘だとでも思っているのか、少佐のいかめしい顔つきは動かない。ああ、こんなとき俺にも男の声と身体と威厳があったらいいのに。軍人として戦場にでて、もう何度そう思ってきただろう。
「ふんっ、無許可離隊で勝手に出るぞ! それでいいだろ!」
 吐き捨てるように云って歩き出す。その背後から、司令の呆れたような声が振ってくる。
「まあ……ウィッチに本気で暴れられたら、男には止めることもできんからな」
 俺はその言葉を無視してテントを出た。雪原に立てられた野営地は、鈍色の空に押しつぶされそうにたたずんでいる。そこかしこのテントの入り口から、顔をだしてこちらに注目している隊員たち。みな雪のように青白い表情で、崩落寸前の雪庇のように張り詰めている。
「おいっ! 俺の馬を出せ!」
 整備庫がわりの大天幕に入ると、整備兵たちは機材の間であわただしく駆け回っていた。
「はいっ! 今すぐ出せます! どうせ少尉が出るだろうと思ってましたから!」
 ――ふん、わかってるじゃないか。
 にやりと微笑みかけると、発進ユニットの調整をしていた整備兵も笑いを返す。整備兵たちはわりと好きだ。男だの女だのとあまり云わない。彼らはただ機械のことだけをみているから。
 発進ユニットにはすでに俺の愛馬が用意されていた。零戦二二型甲。戦いの中で壊し続けてきて、これで三代目にもなる馬だ。
「管野一番、出るぞ!」
 ユニットに足を突っこんでエンジンに点火。吸気、圧縮、爆発、排気。クランクシャフトが作り出したエネルギーが魔法力と結びつき、エーテルの呪符を高速で回す。
「――御武運を、“ミス・デストロイヤー”」
 爆風に帽子を押さえる整備兵に親指を立て、俺は空へと飛び立った。
 高く。
 高く。
 鋼鉄の軍馬を履いて空へと飛ぶ。
 白々とした曇天と雪原に挟まれて、俺はどんどん白くなる。






 ――白馬の王子さまに、憧れていた。






 でも、自分が王子さまになりたかったわけではなかった。






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じゃじゃ馬ならし

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 §

 小さいころ俺は、夢見がちで臆病な少女だった。
 いつも少女詩集を胸に抱いて、少しずつ大人になっていく自分の身体にとまどいながら日々をすごしていた。伸びていく背、丸くなっていく身体、膨らんでいく胸。少女ではない女になるのが怖くって、文学の世界に傾倒していった。
 穏やかで清潔な詩が好きだった。
 西條八十、金子みすゞ、室生犀星、北原白秋。岩波文庫がぼろぼろになるまで読みふけっていた。萩原朔太郎や中原中也は少し怖い。ぴんと張り詰めた行間から、暗黒がときどき顔を出すから。
 はじめて島崎藤村の『初恋』という詩を読んだときは、いいようのない感情に胸が切なくなったことを覚えている。

 まだあげ初めし前髪の
 林檎のもとに見えしとき
 前にさしたる花櫛の
 花ある君と思ひけり

 やさしく白き手をのべて
 林檎をわれにあたへしは
 薄紅の秋の実に
 人こひ初めしはじめなり

 ああ、なんて清潔で無垢な憧れなのだろう。
 男の恋とはこのように美しいものかと思った。こんな風に無垢な恋を捧げられる、優しくも白い少女になりたいと思った。まだあげ初めし前髪にとまどう、花ある君になってみたかった。
 やがて少しだけ大きくなって、海外の小説も読むようになった。
 バルザック、ゾラ、ジョルジュ・サンド、スタンダール。
 ガリアの文学が好きだった。
 あの国の小説には、洗練された美意識に醸成された退嬰的なシニシズムを感じた。金色に色づくシャンゼリゼ通りのマロニエ並木、モンパルナスの石畳。世間からはじき出された周縁者が、やせこけた頬を敵意でとがらせ、肩をいからせながら歩いている。ガリア文学につきまとうそんなイメージが大好きで、読めば読むほど自分のやぼったい黒髪や扁平な扶桑顔がいやになった。
 あのころ俺は、いつだって自分がこんな風じゃなければいいと思っていた。
 もっと肌が白く、足はすらりと長くて、絹のような金髪を持ち、繊細な瞳に深い理知を宿している。そんな女の子になれればいいと、毎日のように願っていた。
 白馬の王子さまという存在に憧れていたのも、そのころだ。
 ウェーブがかった金髪をなびかせ、白馬にまたがって颯爽と現れるすらりとした王子さま。つまらない私に、くだらない私に手を伸ばし、ここから連れ出してくれる空想のヒーロー。
 頑是ない、子どもっぽい憧れだ。
 けれどそんな憧れを持ち続けているのも、当時の俺にとってそれほど難しいことではなかった。なんといっても実家は華族の血を継ぐ旧家で、家族はみな穏やかで物静かな性格をしていたから。
『女は常に三歩身を引き、殿方を引き立てるように』
 俺は子どものころから母にそう云われて育って、自分でもそれを疑問に思わず受け入れていた。周囲の女の子たちがウィッチを真似したズボンファッションをしていても、俺だけはいつもセーラー服の長いスカートを引きずって、肌を見せないように生きてきた。清楚で控えめだと有名な三姉妹の中でも俺は特に引っ込み思案で、『直ちゃんは本当に扶桑なでしこの鑑ね』と、姉様にはよく云われたものだった。
 結局のところ俺は空想に生きる文学少女で、蝶よ花よと育てられた深窓の令嬢だったのだ。なんの力も持たず、状況を変える意志も持たず、ただ妻として男に嫁ぎ、夢のようなお話を夢想しながら家の中で生涯を終えていく。
 そんな女になるはずだったのに。
 ――一体どうして、こうなってしまったのだろう。
 今にも落ちてきそうな灰色の空の中、巡航速度で飛びながら苦笑する。眼下にはみなれた雪原が広がり、葉の落ちた木々の枝にきらきらと樹氷が光っている。頬を切る風は冷たいが、全身に満ちた魔法力がこの身体を守っている。
 飛ぶ。
 飛ぶ。
 飛んでいく。
 実家の邸宅から一歩も出ようとしなかった引っ込み思案の直ちゃんが、遠くオラーシャの雪原をたったひとりで飛んでいく。
 どうしてこうなってしまったのだろう。
 俺はいつからこうなってしまったのだろう。
 あの日魔法力が発現し、航空ウィッチの適正があるとわかったときからか。人前ではじめて重いスカートを脱ぎ捨てて、恥じらいながらズボン一枚の姿をさらしたときからか。見よう見まねでユニットを駆って、標的機を体当たりで撃墜したときからか。威圧的な男どもに負けないよう、一人称を『俺』にしたときからか。
 白馬の王子さまに守られることを夢見ていた。
 けれど気がつけば俺は、鋼鉄の馬にまたがり誰かを守るウィッチになっていた。
 それがおかしなことだとは思わない。自分自身に無理をしているつもりもない。人前で『俺』と呼ぶことに違和感はないし、ウィッチとして空を飛んでいるとそれが自然なのだと思えてくる。
 ただあのころのことを考えると今の自分がなにやら不思議で、そうして少しだけ寂しくも感じる。今はもういなくなってしまった『私』のことを、少女詩集を胸に抱いて、恋に恋していた私の亡骸を、ほんの少しだけ悼む気持ちも残っている。
 ――だが、それだけだ。
 私は私、俺は俺だ。
 そうして今の俺にとっては、この茫漠と広がる雪原と、身体を包み込む空だけが世界のすべてだ。
 厚い雲に覆われて、太陽は白々とした予感でしかない。たわむれにロールしながら高度をあげても、白一面の光景は変わらない。
 地平線はおぼろげな靄に包まれ、回転しているとどちらが空でどちらが地表かわからなくなる。地表も空も合わさって、乳液のような白い海を泳いでいる気分がする。ずっとずっと、この海を泳いでいた気さえする。
「――おい、永遠を見つけたぞアルチュール・ランボー。それは空とつがった雪原だ」
 もうランボーがウィッチだったなら、どんな詩を詠んだことだろう。詩人はみな空を飛べばいい。詩想はナイトウィッチの交信のように、世界中の天穹を満たすはずだから。

 ※   ※   ※

 やがて空のただ中に、綿埃のような煙が上がっているのが見えてきた。
 黒胡麻のような航空機の影と、それにむらがう羽虫たち。ぽんと煙が上がるたび、名前も知らないどこかの誰かが死んでいくのだ。
 魔法力を振り絞り、全速航行に切り替えた。零式の機体がびりびりと震え、栄二一がうなりをあげる。仰角をとって急上昇、インカム出力をオラーシャの周波数に切り替える。
『こちら扶桑海軍遣欧艦隊第二五航空隊ウィッチ部隊一番機、管野直枝少尉だ。今より敵機を殲滅する、総員持ちこたえることだけ考えろ』
『ウィッチ部隊か! 助かったっ!!』
 帰ってきた喜びの声に、思わず俺は苦笑する。武器も持たず丸腰で、しかも単騎であることは伝える必要もないだろう。とんだ白馬の王子さまだが、どちらにしろ俺が失敗すればみなが絶望の中で死ぬだけだ。
 高空に位置をとり、戦場全体を見渡した。押されているのは明白だった。オラーシャの主力は全木製戦闘機LaGG-3。頭文字を読み替えて『塗装された折り紙つきの棺桶』と揶揄される、低性能の戦闘機だ。
 今もまた一機、撃ちこまれたネウロイの弾丸で、棺桶の蓋に釘が打たれた。
「――これ以上やらせるかよっ!!」
 肺から空気をしぼりだすように叫ぶ。
 息を止めて急下降。激しい制動に零式が悲鳴を上げる。
 巴戦にすぐれたこの機体も、急降下性能は決して高くない。それでも俺は、この戦法で戦果を挙げてきたのだ。
 眼下にみえる敵部隊は、小型ネウロイがおよそ二〇機。俺たち全員の棺桶に釘を打って釣りがくる量だ。
「おおおおおーーっ!!」
 腰の扶桑刀を引き抜き上段に構える。
 鞘はその場に投げ捨てた。
 LaGG-3の尻をとっていたラロスをすれ違いざま一閃。重い手応えに歯を食いしばりながら振り抜いた。背後から爆風があがったころには、遙か低空に抜けている。
 瞬間、圧力を感じる。
 すべてのネウロイがこちらに注視している気配がする。
 ピッチアップ。バレルロール。頭を押さえ込ませないで急上昇。ひゅんひゅんと擦過音。地上の針葉樹林がばりばりとなぎ倒されていく。実体弾の一斉掃射を受けている。
 ターンして視界を全天に。空を埋めるネウロイの群れ。マズルファイアがきらめく。強化した視力で射線を読んで、最小のシールドで受けていく。がんがんがんがんがん、弾をはじく音がする。でかいシールドを張るのは少し苦手だ。長いスカートのように身体が重くなる。軽やかに強く、俺は飛びたい。
 突進。フック。スリップ。ナイフエッジ。
 弾をかわして刀を振り抜く。
 二機、三機、四機、五機。
 六機目を落としたところで、刀の刃こぼれがはじまった。力にまかせてぶった切るだけでは限界がある。リバウにいた坂本大尉や『魔のクロエ』ならともかく、俺は扶桑刀の扱いは決して上手くない。
 ああ、坂本大尉。ダイナモ作戦に従事したという彼女は今も生きているのだろうか。あの豪放磊落なサムライなら、このくらいの小型ネウロイの群れなど相手にしないに違いない。彼女がリバウにいたころ、もっと教えを乞うていればよかった。男と女の垣根も笑いながらぶちこわすような、あのひとの自然体の強さが好きだった。
 一〇機目を切ったところで、扶桑刀が砕け散った。
 その場で不要になった柄を投げ捨てる。背後から飛んできた機銃掃射を、股をおっぴろげてぎりぎりかわす。あのころの俺だったら赤面するような体勢だったが、どうせ空では誰もみていない。そのままターンしてきりもみ落下。〇・五秒前までいた場所を、前後から撃たれた機銃がなぎ払う。
「うぜぇんだよおまえらはっ!!」
 叫びながら、魔法力を集中させた拳を握りこむ。全身のシールドを一点に集め、超硬度のナックルガードを作り出す。研ぎ澄ませ、もっと研ぎ澄ませ、あのパリの詩人たちのように。
「とっとと! 来た場所に帰れっ!」
 ゼロ距離まで接近し、右拳を全力で振り抜いた。
 ごしゃん、と自動車同士が激突したような音を立て、ネウロイが吹き飛ぶ。全身から破片をまき散らしながら、やがてはじけて結晶に変わる。舞い散る結晶が雪のようで、少しだけ、身体が震えた。
 ――あと九機。
 考える余裕すらなかった。
 飛んできた弾をのけぞってかわす。けれどかわしきれずに頬をかすめて、瞬間顔が燃えるように熱くなる。空に飛び散る盛大な赤。視界をふさぐのが邪魔だ。
 インメルマンターン。クルビット。スライスバック。ハイ・ヨー・ヨー。
 もてる技術を駆使して接近、思いっきりぶん殴る。そのたび身体が震え骨はきしみ、目の前が真っ赤に染まっていく。
 一二機目を殴ったところで、左腕を弾がかすめた。
 一三機目を殴ったところで、右のユニットに被弾した。
 一四機目を殴ったところで、自分がなにをしているのかわからなくなった。
 一五機目を殴ったところで、すでに魔法力が尽きていた。
 ――ああ、死ぬのか。
 身体に染みついたマニューバを取りながら、頭の中は真っ白だった。妙に冷静な気分だった。結局のところみんな死ぬ。今まで戦場を駆けてきて、毎日のように大量のひとが死んでいった。そうして今やっと自分の番がきたという、ただそれだけのことだった。よもやこの地獄のような戦場にいて、自分だけは死なないだろうなど思ったことは一度もない。
 視界を埋める五機のネウロイ。
 ただ白い雪原と、ただ白い空。
 これが、俺という存在が捉える最後の光景か。
 ――けれど。
 そう思った瞬間、金色の閃光が天から走った。
 俺とネウロイの間を稲妻のような影が通りすぎ、敵が一機、爆散して結晶に変わる。
 一瞬なにが起きたのかわからなかった。ただ閃光のような影が走った直後、電動のこぎりにも似たMG42の連射音と、カールスラントDB601のエンジン音を聞いた気がした。
『――無事かっ、扶桑のウィッチ!』
 インカムから聞こえたその声に、俺は馬鹿みたいにきょろきょろと辺りを見まわす。そのときになってもまだ事態を認識していなかった。生死を分ける戦場の一瞬、呆けたように辺りを見まわす俺は、さぞかし間抜けに見えたことだろう。
 インカムから舌打ちが聞こえたと思ったら、突然身体が柔らかいもので包まれた。
 ふわりと漂う麝香のような香水の香り。
 頬に押しつけられた胸の丸みと、両ももにまわされた腕のしなやかな感触。
 顔を上げると、視界がなにか美しいものでしめられていた。きりりとした目尻と通った鼻筋、色素の薄いくちびると、すっきりとした顎の線。そうしてふわふわになびく、絹のように細い金髪。
 一瞬、子どものころに戻った気がした。
 家から一歩も外に出ず、自分の殻から外に出ず、ただ王子さまが訪れてくれるのを待っていた、少女のころの自分自身に。
 だって目の前にいるそのひとが、あまりにも空想の王子さまとそっくりだったから。
 彼女は俺をお姫さまのように優しく抱きながら、上昇して戦場を離脱する。
「大丈夫!? しっかり! まだ死ぬのは早いぞ!」
「あ……」
 突然心の奥からやってきた恥じらいに、全身が熱くなっていた。きっと俺の頬は、そのとき赤く変わっていたことだろう。まったく馬鹿みたいだと自分でも思う。紅潮するまでもなく、頬は血糊で真っ赤だったはずなのに。
 けれどそんな俺に、彼女は微笑んで云ったのだ。
「ふふ、キミみたいな可愛い子に目の前で死なれたら、私はきっと一生後悔するだろうね」
「――はぁっ!?」
『馬鹿云ってないで、ニセ伯爵。目の前の敵に集中しなさい』
『はいはい、エディータ先生はお厳しいことで。でも馬鹿なこと云ったつもりはないよ、この子は実際可愛いからね』
『……んもう』
 インカムから聞こえてきたのは呆れたようなため息。
 その直後、もうひとつ矢のような閃光が走る。
 今度は見誤ることはなかった。カールスラントのBf109を履いたひどく小柄なウィッチが、高空からすれ違いざまの一撃でネウロイを落とす。そのまま戦域を離脱し、再び上昇。俺の戦法とよく似ているが、彼女たちのほうがより洗練されていた。
「そこで少し休んでて、子猫ちゃん。キミは偉大な仕事をしたよ。あとで一緒に酒でも飲もう」
 ニセ伯爵と呼ばれた王子さまが、その言葉とウィンクを残して戦場に戻っていった。
 履いているのは鋼鉄の白い馬。
 矢のように飛んでいくのはすらりとした長身。
 ウェーブがかった金髪をなびかせて、白い空を颯爽と飛んでいく。
 煙を上げるユニットでかろうじて飛びながら、俺は鬼神のような動きをみせるその姿をじっと目で追っていた。残った三機のネウロイもすぐに落とされ、インカムからはオラーシャ軍の喝采が聞こえる。
 どうやら俺は、危ういところで撃墜をまぬがれることができたらしい。
 助かったという安堵感に力が抜け、すっと意識が遠のいていく。
 けれど戻ってくる彼女の姿をおぼろげに眺めながら、心の奥底ではひしひしと感じ取っていた。

 俺の心の少女の部分は、すでに彼女に撃墜されていることに。
 
 それが、俺とこの悪い王子さま――ヴァルトルート・クルピンスキーとの出会いだった。



 §

 戦況は絶望的だった。
 カールスラント残存兵力を中心とした一大反攻作戦『バルバロッサ』は、失敗の憂き目に瀕していた。
 大ビフレフト作戦によって周辺諸国に散会したカールスラントウィッチ勢力をまとめ、東方オラーシャ軍およびスオムス軍、扶桑の遣欧艦隊と合同してオラーシャ北部のネウロイの巣をたたく。
 それがこの作戦の枢要だったのだが、計画は初手から予想外の展開をみせていた。
 当初バルト海の内陸深く、スオムス湾の奥ペテルブルグに巣が存在し、ネウロイはそこから北欧全体に睨みをきかせているのだと思われていた。だがいざ侵攻してみれば、そこにネウロイの巣は影も形も見あたらない。
 ならばその奥、大戦初期にネウロイに制圧されたモスクワ方面からくるのだろうと判断し、東方オラーシャ部隊との合流をめざして進撃したのが運の尽きだったのかも知れない。
 バルバロッサ侵攻部隊へと物資を運ぶ、海運の最重要地域バルト海。そこが突如としてネウロイの激しい攻撃に晒されたのだ。
 ブリタニアが誇る空母ハーミーズは緒戦で撃沈。輸送艦隊は海の藻屑となり、かつて沈んだヴァイキングたちのロングシップとともに、バルト海の海底を人類航海史の一大展示場へと変えた。
 慌てて飛ばした偵察部隊によってわかったことは、ネウロイの巣は制圧間もないオストマルクにもすでに存在しており、そこからバルト海全域を攻撃しているということだった。
 ――進むべきか、退くべきか。
 内陸に食い込んでいた部隊は、撤退か進撃かの苛烈な判断を迫られた。モスクワさえ取れるなら、扶桑よりシベリア鉄道経由で物資が届く東方オラーシャと、バルト海を擁するペテルブルグを結ぶことができる。モスクワで戦力を立て直し黒海周辺に侵攻すれば、カールスラントやガリア方面に大型ネウロイの主軸がある敵陣営を、背後から突くことができるだろう。
 だがバルト海という補給線を押さえられ、武器弾薬に補充部品、それに食料が届かない。オラーシャ国内で補充するにしても、国ごとに機材の仕様も性能も異なり、整備兵もとまどうばかり。ただ一国、圧倒的な機械整備の伝統を持つスオムス軍だけが意気揚々としていたが、主力のカールスラント軍が機能しなければ仕方がない。
 そしてさらにもうひとつ、スオムスやオラーシャの司令部が想像もしていなかった伏兵が、カールスラントと扶桑軍を襲ったのだった。
 それは北方のスオムスやオラーシャでは当たり前すぎて、意識にすら昇らなかった敵だった。
 そして扶桑やカールスラントでは想像がつかなくて、対策すらとれなかった敵だった。
 ――-平均気温、マイナス一二℃。
 冬将軍の、到来だった。

「いやー、オラーシャの冬は寒いよねぇ。酒でも飲まないとやってられないよ」
 クルピンスキーはそう云ってビンに口をつけると、ウォトカをぐびりと喉に流し込む。どう考えても下品な行動なのに、この女がやると不思議とさまになっているのが悔しい。
「なに云ってるのよプンスキー伯爵。あなた地上に降りればいつだって飲んでいるじゃない」
「えー、そんなことないでしょ。だってほら、私はそばに可愛い女の子がいなければ飲まないからさ。……って、あれ? それってたしかにいつもかも」
 その言葉に、同席していたオラーシャの陸戦ウィッチ二名がくすくすと笑う。プンスキー伯爵と呼ばれたクルピンスキーは、そのふたりにウィンクと共に笑顔を返す。
「まったく……」
 ワインを飲んでいたロスマンが、困ったように眉をしかめた。まるで尋常小学校の子どものように小さい彼女だが、その落ち着いた物腰には大人の貫禄が感じられる。
 とんとんとこめかみを叩きながら、ロスマンはため息と共に口を開いた。
「あの、みなさんもこの女の言葉には気をつけてくださいね。自分で云ってる通り、とんだドン・ファンなんだから。やり捨てされて泣きたくなければ、甘い言葉と誘い文句には乗らないことです」
「――ぶっ!!」
 思わず焼酎が気管に入って、俺は盛大にむせかえる。
 自分より随分年上だとわかっているけれど、子どもみたいなロスマンの口から『やり捨て』なんて言葉が出ると、やはり驚く。
 オラーシャの陸戦ウィッチは「きゃーー」と華やいだ声を上げ、同僚の橘牡丹はずずと湯飲みをすすりながら不思議そうに首をかしげた。陸戦ウィッチの名前はすでに忘れた。どうせなんとかロフとかなんとかエフとかいうやつだ。
 それはあの戦闘から二日後のことだった。
 俺たちはあのときクルピンスキーが云った言葉通り、顔をつきあわせて酒を酌み交わしていた。ノブゴロドより一〇〇キロほど進んだ小さな街の、接収した公民館の一室だ。
 オラーシャ第二三軍およびカールスラントJG五二との合流をはたし、俺たち遣欧艦隊第二五航空隊も息を吹き返すことができた。
 オラーシャ軍は扶桑むけの補充物資を持っていたし、JG五二は音に聞こえた精鋭部隊だ。俺たちは再びモスクワを目指すだけの戦力を取り戻していた。
 機材の修理やら三国間における命令系統の再編やらを行った後、豪雪をかき分け進軍を続けた。司令部より撤退命令がでていない以上、ただ前に進むしかなかったからだ。

「ところで管野少尉、ドン・ファンってなにか知ってます?」
 暖かな灯油ランプの灯りに照らされて、扶桑人形みたいな容姿の牡丹が云った。
「ああ、ヒスパニアの物語にでてくる女たらしのことだよ。ええと、たしかガリアの戯曲にこんな台詞があったな、『熱情や涙やため息で、あどけない清らかな魂を攻め落とす。かよわい抵抗のことごとくを、一歩一歩と打ち破る。貞操大事と気をもむのをおさえつけ、思いどおりのところへ女をそっと連れてくる』ふん、偽善者で悪人、掛け値なしのすけべやろーだな」
「――へぇ?」
 ロスマンが頬に指をあて、面白そうに微笑んだ。
「それ、モリエールの戯曲じゃない。無骨なサムライかと思ったら教養あるのね、管野少尉」
「そんなんじゃねぇよ、好きで読んでただけだ」
 ぷいと顔をそらすと、当のドン・ファンはあぐらをかいた足首をつかみ、嬉しそうに身体を前後にゆすっていた。
「わぁ、ナオちゃんって本当に素敵だなぁ。格好よくて可愛いだけじゃなくて、教養もあるなんてさ」
「うっせえっ!! 俺をナオちゃんって呼ぶんじゃねぇっ!!」
 かっと頭に血が昇って、思わず空の猪口をぶん投げる。けれど猪口はウィッチのシールドに阻まれ、ぽとりと女たらしの手のひらに落ちる。
「ふふ、怒った顔も可愛いね、ナオちゃん♪」
「ぶっ殺されてぇのかっ!!」
「いい加減にしなさいクルピンスキー!」
「お、押さえて! 管野少尉押さえてください!」
 ロスマンがいさめるのと同時に、牡丹が俺に飛びついてきて押しとどめる。けれどクルピンスキーはなにも気にしてないように、じっと俺の目を見つめて微笑むだけだった。
 その深い琥珀色の瞳。ぱっちりとした上まつげ。
 思わず気圧されてしまって、つい視線を逸らすとオラーシャのウィッチふたりと目があった。
 ――俺のことを、憎らしいものをみる目でにらんでいた。
「……ふん」
 それでなにもかも馬鹿らしくなって、どっかとあぐらをかいて酒を煽った。まったくこれだから女ってやつは度し難い。いつだって誰かに好かれることばかり考えていて、なのにみんなを自分と横並びに置きたがっていて、そこから一歩でも抜け出そうとするものがいると、群れの力で押し戻そうとする。
 そういうものに出会うたび、俺は女らしくなんてなりたくないと思うのだった。
「――熱情や涙やため息で、あどけない清らかな魂を攻め落とす。かよわい抵抗のことごとくを、一歩一歩と打ち破る」
 ふと聞こえてきた声に視線を上げると、クルピンスキーが両手をついて俺のほうに身を乗り出していた。
「……なんだよ」
 漂ってくるウォトカの酒臭さの中に、ふわりと漂う麝香の香り。思わず顔を背けた俺に、クルピンスキーは切なげな流し目を送ってくる。
「ふふ、そういうゲームみたいな口説きかたもいいかもね。でもあいにく私にそんな趣味はないよ。可愛い女の子は可愛いと思う。それだけだよ管野直枝少尉」
「……うっせぇ、信じられるかよ」
「あらら、本当に嫌われちゃったのかな、悲しいね」
「……ふん」
 ――信じない。
 そうだ絶対信じない。
 こんなに香水の香りを漂わせてる奴を、俺は絶対信じない。
 どうせこいつも、俺のことをからかっているだけなんだ。
 だってそうだろう。あぐらをかいて焼酎を飲み干す。自分のことを『俺』なんて呼ぶ。ネウロイを拳で殴ってぶち壊し、全身傷だらけで腕に包帯を巻き、えぐられた頬の傷は跡が残るかもしれない。
 そんな女を可愛いなんて云う奴を、信じることなどできるはずがない。
「まあ、私のことは信じてくれなくていいよ。でもこれだけは信じて欲しいな。キミは絶対可愛いってこと」
 その言葉が聞こえた瞬間、俺のあごに柔らかな手が添えられた。反射的に振り払おうとしたけれど、彼女の動きはそれより遙かに素早かった。
 クルピンスキーはあの一撃離脱戦法のような早業で、傷ついた俺の頬にそっとキスをした。
「――なっ!!」
「ふふ、その傷治るといいね。でも、治らなくても可愛いと思うよ」
 ドン・ファンはそう云って立ち上がると、手を振りながら去っていった。対象に素早く致命的な一撃を与え、その後攻撃圏外に離脱する。まさに一撃離脱戦法そのものだった。
 ――心臓が、ひどくうるさい。
 身体が燃えるように熱くなる。
 その熱さはきっと焼酎のせいじゃない。心の中の少女の私が、身もだえしながら叫んでいる。頬にふれられたくちびるの感触。ジゴロめいた麝香の香り。王子さまだと叫んでいる。あのひとが私を連れ出してくれる王子さまだと、救い出してくれる王子さまだと云っている。だって女らしさを欠片もなくした粗暴な私を、可愛いなんて云ったもの。
 島崎藤村の『初恋』が、ふいに記憶の底から浮かび上がる。

 やさしく白き手をのべて
 林檎をわれにあたへしは
 薄紅の秋の実に
 人こひ初めしはじめなり

 彼女が俺に与えてくれたのは林檎ではなく銃だったけれど。
 薄紅の秋の実もすべて落ち、豪雪と吹雪にまみれたオラーシャの地だったけれど。
 それでも藤村が残した言葉は、この薄汚れた異国の部屋の中空に、ふわりふわりと漂っていた。
 ――人こひ初めしはじめなり
 俺はその一節を振り払うように、激しく首を振って立ち上がる。
「……興がそがれた。俺も自分のテントで飲み直す」
「あ、まって管野少尉っ」
 背後から牡丹の声が聞こえたけれど、振りむかずに駆け出した。
 今は誰の顔もみたくなった。ロスマンも、オラーシャのふたりも、牡丹も、そしてもちろんクルピンスキーも。
 いや、みたくなかったのではなく、自分がみられたくなかったのだ。
 俺の顔は、きっと耳まで真っ赤になっていただろうから。

 建物の外は身を切るような寒さで、野営地は豪雪の中ひそむようにたたずんでいる。
 吐く息は白く凍りつき、けれど胸のどきどきが止まらない。ぎゅっとマフラーをのど元まで引き上げる。自然とゆるんでしまいそうな口元に、今自分がどんな感情を持っているのかわからなくなって混乱する。
 夜空に架かる丸い月をみていたら、大声で叫びたくなってぐっとこらえた。



 §

「ねぇ、管野少尉って伯爵さんのこと嫌いなんですか?」
「――はぁっ?」
 藪から棒に変なことを云いだした牡丹に、思わず素っ頓狂な声がでた。けれど牡丹は落ち着いた眼差しでじっと俺の目をみつめている。基本的にこいつは表情に乏しく穏やかだ。昔の俺と同じかそれ以上に大人しい、扶桑なでしこの鑑のようなウィッチだった。
「いえね、管野少尉ってなんだかあのひとのことになると途端に厳しくなるじゃないですか?」
「なんだよ、どうだっていいだろそんなこと」
 ぷいと顔を背けてエンジンをふかす。栄二一がうなりをあげて、頬に当たる風が強くなる。地上の木々と空の雲がぐんぐんと後ろに流れ去る。牡丹の姿をはるか遠くに置き去ってから、俺は治りかけた頬の傷にそっと手を触れた。
 あんなやつは嫌いだ。
 俺の心をどうしようもなく惑わせて、戦いのために研ぎ澄ませた切っ先を鈍らせようとする。
『やり捨てされて泣きたくなければ、甘い言葉と誘い文句には乗らないことです』
 ふとロスマンの言葉がよみがえる。その通り、やはり誰にでも声をかける女なんて信用できない。どうせあいつは、扶桑の野蛮な珍獣を珍しがって遊んでいるだけなんだ。
 そうとでも思わないとやってられない。優しい言葉と甘い誘惑に喜んで、いざ心を預けたときに笑いものにされたらと思うと、怖くて怖くて足下が震えだす。
「どうでもよくないですよっ!」
「わっ!」
 いつの間にか追いついていた牡丹が、顔の近くで大声を上げた。
「伯爵さん、少尉のことお気に入りみたいじゃないですか。あんなに可愛い可愛い連呼して……」
「ふん、からかってるだけに決まってるだろう。俺のどこが可愛いって云うんだ、馬鹿らしい」
 そうだ馬鹿らしい。
 なんといってもあいつは、化け物揃いのカールスラントの中でもトップエースの一角なのだ。
 あのエーリカ・ハルトマンに空戦技術を教え込み、ゲルトルート・バルクホルンの元同僚で、ハンナ・マルセイユの上官だったというから馬鹿らしくて涙がでてくる。
 世界中の誰もが知ってるエース中のエースじゃないか。
 さらにはあいつ自身も、彼女たちに匹敵するの戦果を挙げているのだからたまらない。ちょっと色目をつかえば、どんな女だって落ちるだろう。
 たとえばあの、オラーシャの陸戦ウィッチたちのように。
 ――あいつ、あのふたりと寝たのかな。
 そのことを考えると、胸がどうしようもなくかき乱される。女たらしで誰とでも寝るというあいつのことだ。云いよってこられればほいほい食ってもおかしくない。ふたりとも女らしくて可愛いウィッチだ。雪のように白い肌、ぱっちりとしたまつげ。アッシュブロンドの長髪をおしゃれに結って、クルピンスキーに媚びを売っていた。
 それにあのエディータ・ロスマン。
 可愛いというならあのひとほど可愛らしい女もそうはいない。子どものような体躯をしていながら、穏やかで理知的な話しかたをする。ユーモアのセンスもあって明るくて、俺なんかよりよほど魅力的な女だ。今はクルピンスキーに小言ばかりを云っているようだが、昔はどうだったかわからない。長いこと共に戦ってきたらしいから、一度や二度は寝ていたっておかしくない。
 ――って、なにを考えているんだ俺は。
 いつのまにか、クルピンスキーが誰と寝ているかばかりを考えている。あのしなやかですらりとした手足が、どこかの女の白い肌と絡む情景ばかりが浮かんでいる。
「……やっぱり可愛いなぁ、管野少尉は」
「うわぁっ!!」
 いつのまにか顔を近づけていた牡丹が、耳の近くでぼそりとささやいた。
「いい加減にしろよ牡丹! 殴るぞ!」
「うふふ、少尉がぼーっとしてるのがいけないんでしょう。素手で一五機撃墜して功七級金鵄受勲が決まってるエースが、隙だらけじゃないですかー」
「素手じゃねぇよ、途中までは扶桑刀使ってたぞ」
「そんなの……大して変わんないです、すごいよ」
「すごくねぇ」
「すごいよ」
 きっぱりと云われて、それ以上反論できずにだまりこむ。
 視線を前にむければ、遠く万年雪を抱いた山並みのむこうに、赤い赤い朝日が顔を出している。
 この色味に乏しいオラーシャの雪原も、朝と夕にだけはオレンジで満ちる。感情を麻痺させる白と、血潮のように色づく赤。それがここにある色のすべてだ。
 クルピンスキーと出会ったあの日、俺は無許可離隊のつもりで飛び出していったけれど、いざ戦果を挙げて帰ってみれば正当な作戦行動だということになっていた。それにより五味は自滅寸前だった部隊を建て直した名司令になり、俺は死地から生還した奇跡のウィッチとなった。
 誰も損をしないやりかただ。
 もちろんあのまま死んでいれば、俺は自分で切った啖呵通りに無許可離隊の上戦死となっていたのだろう。五味のやり方に多少の嫌悪感を感じるが、理解はできる。それが立ち回りというものだ。
「――む」
「どうしました?」
「三時方向、水平線上だ。見えるか牡丹」
 朝焼けの空の中、ごまのような黒い点がぽつぽつと浮いていた。全部で一〇点ほどだろうか、中に一点、他より大きな姿が見える。
「ネウロイですね。小型一〇、中型一。野営地のほうにむかってるみたい。索敵に出てよかったですね、JG五二を待ちますか?」
「いや、俺たちでやれるだろう。可能な限り速やかに墜としたほうがいい。今度はおまえもいるし、なにより武器があるしな」
 そう云って、背中の九九式を脇に構える。牡丹は照れくさそうに微笑みながら、馬鹿でかい九七式自動砲を取り出して弾をこめた。牡丹は機動は鈍いが射撃とシールドに定評があって、遠距離からの固定砲台を得意とする。
 インカムで司令部に入電。敵編成とこれから掃討にかかることを告げてエンジンをふかす。
「俺が突っ込む。橘軍曹は援護を頼む」
「アイアイ、少尉」
 このときは、自分の判断に微塵の疑いも持っていなかった。
 だが俺は、すぐにそれを悔やむことになる。
 一番でかいやつにむかってシンプルに突撃。二、三の実体弾が身体に当たるが、シールドを体表に展開して防御、顔をつきあわせる距離まで即座に接近する。
 近くから見るネウロイは本当に醜い。
 蚊のように突き出た口吻に、糸ノコにも似た返しがびっしりと植わっている。連射して離脱。その直後、露出したコアに牡丹の射撃が命中する。背後からカシャンと乾いた破裂音。すぐに小型機の殲滅に移る。
 そんな風にして、俺と牡丹はネウロイの群れを墜としていった。
 だが小型機も残り二機となったとき、予想外の出来事が起きたのだ。
 それまで俺にむかって突撃していたネウロイが、突如として牡丹のほうへと進路を変えた。
「――牡丹っ!」
「いやっ! こっちくるっ!」
 俺は慌ててループして追いすがる。だが逆方向に働いていた推力が大きく、なかなか加速度が上がらない。慌てて距離をとろうとした牡丹にむけて、ネウロイが高速誘導弾を放つ。それを牡丹はシールドで防御。同時にふたつの行動を取れない不器用な彼女の逃げ足は鈍った。
 油断していた。
 今までのネウロイの動きでは、遠方の標的は誘導弾と遠距離砲で牽制するだけで、まず真っ先に手近にいる標的にむかっていた。
 だが戦場では常に予想外のことが起きる。
 それを考えてしかるべきだった。弱点を持っているウィッチは、いつかその弱点を衝かれて必ず墜ちるのだ。
 一機は牡丹が射撃で墜とした。
 だが残り一機にとりつかれた。
 ウィッチのシールドは対衝撃には優れているが、ゼロ距離で力を掛ければ強引にこじあけることができる。
 牡丹の身体を守るシールドが、パンと弾けて砕け散る。
 ――スローモーションで覚えている。
 彼女の真っ白い太ももに、ネウロイの醜い口吻が突き刺さっていく光景を。



 §

 命に別状こそなかったが、一週間の絶対安静となった。
 かけつけたJG五二の救護班に治癒魔法持ちのウィッチがいなかったら、死んでいたかもしれない。
 救護室のベッドで、牡丹は血の気の失せた顔を悲しそうにしかめさせた。手首から伸びた点滴の管が痛々しい。
「ごめんなさい、私がどんくさいせいで……」
「なに云ってんだ馬鹿。しっかり休んでろ」
「でも、この戦況で私が飛べないと、うちの部隊は……」
「怪我人が気にすることじゃねぇ。心配しなくても、おまえが治るころにはケリをつけといてやるよ」
 第二五航空隊にいるウィッチは俺と牡丹のふたりだけ。作戦行動として単独飛行が許されることはないから、実質ウィッチ隊は壊滅、部隊の航空戦力は半減する。
 たしかにケリはすぐつくかもしれない。
 それも、望ましくない方向で。
 救護室のドアを後ろ手に締めて、ぐっとくちびるを引き結ぶ。脳裏には牡丹が墜ちたときの光景がこびりついている。真っ白い雪原に咲いた赤い花。貫かれた大動脈から吹き出す血潮の色。

 牡丹散つて打ち重なりぬ二三片

 与謝蕪村のそんな句が、頭の片隅をよぎって消えた。
「――ナオちゃん! 牡丹ちゃんが墜ちたって聞いたけど平気!?」
「……クルピンスキー」
 アルトの声に振りむくと、クルピンスキーが慌ててこちらに駆けてきた。こいつでもこんな必死な顔をすることがあるんだと、少しだけ意外に思った。もっとも、女絡みならそう不思議なことでもないだろう。
「命に別状はないらしい。今はもう寝てるぞ」
「そっか……それはよかった。部隊の子からひどかったって聞いたから、慌てちゃったよ」
 その言葉の通り急いで走ってきたのだろう。クルピンスキーはこの寒さだというのに掻いていた汗を、チェック柄のハンカチで優雅に拭った。どうやら先の大戦でブリタニアのトレンチコートを仕立てたバーバリーのものらしい。
「よかったら顔でも見ていって――いや、やっぱ見るんじゃねぇ」
「えぇっ!? なんでさ!」
「ふん、おまえに寝顔を見られるだけで、あいつが汚される気がするからな」
「あらら、随分警戒されたもんだね。ロスマン先生の教育のたまものかな。でもまあ、そんな憎まれ口が出るなら本当に大丈夫なんだね」
 クルピンスキーは暴言を気にした風もなく、振り返ってぶらぶらと歩き出す。俺は自分の中で渦巻く感情を整理できないまま、その後ろをなんとなくついていく。
 窓の外ではいつのまにか雪が降っていた。この土地では突然音も予兆もないまま雪が降り、すべてを覆い隠してまっさらな雪原に変えてしまう。ひとの営みも感情も灯火も、覆い隠してなかったことにしてしまう。暖と湿気をとるためか、しゅんしゅんとどこからか湯を沸かす音が聞こえてくる。
「――で、ナオちゃんは平気かい?」
「怪我ひとつしてねぇよ、頑丈なんだ俺は」
「ううん、心配してるのは身体のほうじゃないよ」
「なに?」
 顔をあげると、伯爵はくるりと華麗にターンする。それが嫌になるほどきざったらしくて、俺は無意識に眉をしかめた。
「心のほう。ナオちゃんは自分で云うほど頑丈な性格じゃないって、私は知ってるよ」
「……余計なお世話だ。俺のなにを知ってるつもりだよ」
「色々。ぶっきらぼうだけど本当は戦友を大事にしてることとか、風景やひとの営みに心を動かす感受性を持ってることとか、すごくロマンチストなところとかね。ああ、あとブラのサイズはAカップなんだよね?」
「――なっ!! てめえっ! なんでそんなこと知ってんだ!!」
「あはは、見た目から推測したんだけど、当たってた?」
「……くっ!! この……!!」
 両手で胸を隠してにらんだけれど、クルピンスキーはにやにやと涼しい顔で笑うだけ。慌てれば慌てるだけこいつを喜ばせるんだと気がついて、俺は口を結んで横をむく。
 窓ガラスには、長身の美人の前で顔を真っ赤に染めた、山猿の姿が写っていた。それで俺はどこをむいてどんな表情をすればいいのかわからなくなって、ただうつむいて床の模様を眺めていた。
「ねぇナオちゃん」
「……なんだよ伯爵」
「私はね、本当にキミのことが好きだよ。冗談とか口からでまかせとかじゃない。性的な欲望は一旦置いておいて、ウィッチとしてひとりの人間として好ましいと思ってる」
「……あんのかよ、性的な欲望が……」
「そりゃあるさ、女たらしだもの」
 上目遣いでちらりと見ると、クルピンスキーは左右対称のさわやかな笑みを浮かべている。
 そのすっきりと通った鼻筋。完璧な配置にある顔のパーツ。
 手足はすらりと長く雪のように白い。服を押し上げる胸のふくらみは、女らしさを醸し出しながらもスマートさを失わない。
 ――こんな女が、俺の身体のどこに欲情できるって云うんだ。
 扶桑人らしい寸胴の体躯、扁平な胸とメリハリのない顔つき。いつも怒ったようなしかめ面をして、ネウロイを素手でぶんなぐるような奴なのに。
「あれ? もしかして満更でもない?」
「だ、誰がだっ!! んなわけあるかっ!」
「ふふ、よかったら今晩どうかな? 優しくするし、何回だっていかせてあげるよ?」
「うっせえっ!! ひとの話を聞きやがれ!」
 こぶしを固めて殴りかかると、クルピンスキーは笑いながらひらひらかわす。通りがかった扶桑軍の兵士が、ぎょっとしたような目で俺たちのことを眺めている。
 やがてクルピンスキーは、笑いながら建物の外に走り出た。
 雪崩のように降り注ぐ雪が、そのすらりとした姿を隠してしまいそうになる。
 それがなんだか少し不安で、俺は慌てて追いかける。
「おい! ちょっと待てよおい!」
「あはは、待たないよ。だってナオちゃん殴るじゃないか」
「待てってば!」
 叫んで、逃げようとする背中に飛びついた。腰に手を回すと、布団を抱いたような柔らかい感触が返ってくる。ああ、やっぱり女なんだと今更思う。
 飛びついた勢いを殺しきれずに、クルピンスキーは体勢を崩して地面に倒れた。そうしてふたり、雪の中をごろごろと転がっていく。柔らかいものに全身が埋まる不思議な感触。首筋から雪が入ってきて冷たい。けれど抱きついた身体は暖かい。
 やがて勢いが止まった頃には、俺は伯爵の腹に馬乗りになっていた。
「あ、伯爵……俺……俺は……」
 荒い息を吐きながら、うっすらと笑うクルピンスキーの顔を見下ろしていた。自分がなにをしたかったのかわからなかった。なにを考えなにに苛立ち、なにを否定したかったのかも。
 けれどそんな曖昧な感情も、このクルピンスキーなら受け止めてくれると思っていた。
「ナオちゃん……うちの部隊にきなよ」
「え……?」
「扶桑のウィッチ隊は動けないでしょ? なら一時的にでもうちに出向すればいい。ロスマンや私が教えてあげる。キミはもっともっと強くなれるよ」
「もっと強く……?」
「うん、どんな戦場でも同僚を守れるくらいにね」
 思わず絶句した俺の前髪を、女たらしはそっと手で梳く。その指先の優しい動きは、たしかにこの女が経てきた様々な経験を物語っているようだ。
「貞操のことなら大丈夫、いくら私でも相手の同意がなければ手を出したりはしないから」
「……ばか」
 うそぶくクルピンスキーの頭をコンと小突いた。
 同意がなければ手を出さないなんて当たり前の話で、わざわざ口に出すほどのことじゃない。そこを越えてしまえば口説きではなくただの暴力、女たらしではなく犯罪者だ。
 ――それでも。
 クルピンスキーがそう云ったことを、少しだけ残念に思ってしまう自分がいた。
 自分から決して云い出せないことならば、無理矢理にでも奪われてしまえばどれだけ楽になることか。
 雪の中クルピンスキーと見つめ合いながら、俺はこの醜い感情も雪原に埋まってしまえばいいと思っていた。



 §

 エディータ・ロスマンは、たしかに優秀な教育係だった。
「相手に攻撃されないように攻撃すれば必ず勝てるわ。勝敗は弾を撃つまえにすでに決まっていると思うことね」
「頭上を押さえられたら逃げてはいけない。仰角をとって迎え撃つこと。私たちの背中には目がついていないから」
「クレバーに戦場全体を見まわして。怒りを爆発させるのはぶん殴る瞬間だけでいいわ」
 ロスマンは俺のやりかたを頭から否定するのではなく、その特性を活かすためのアドバイスをしてくれた。
 高空からの一撃といい、ゼロ距離まで接近してからの掃射といい、俺の戦術はカールスラントの基本戦術と似ているらしく、にっこりと笑って筋がいいと誉めてくれた。ただ、最初にネウロイをぶん殴るのをみたときは、あきれ顔で口をぽかんと開けていたけれど。
 彼女を長機としたロッテを組んで、俺たちはたびたび出撃していった。そんなとき、俺を教えてくれると云ったクルピンスキーは、いつも別のウィッチとロッテを組んだ。ハンネ・ダンマースという小柄な女で、猫のような目にはちきれんばかりのヴァイタリティを備えた魅力的なひとだった。
 このように、ロッテ二組で一個小隊を形成するシュヴァルム戦術がカールスラントでは基本らしい。
 ロスマンにしごかれて空を飛び回りながら、俺の目はたびたびそちらのふたりを目で追っていた。ダンマースは俺と似たようなドッグファイタータイプで、クルピンスキーともよく息があっているようだった。ときどき俺にむけてくれるような左右対称の微笑みを、クルピンスキーが彼女にむけているのをみると、俺の胸はどうしようもなく騒いだ。
 そんなことを考えている戦況でもなければ状況でもないことはわかっている。けれど感情は押さえつけようとしても押さえつけられず、俺はひたすらネウロイを殴りつけることでそのもやもやを解消していった。結果として俺の撃墜スコアはどんどん上がっていったけれど、表彰されてもちっとも嬉しくはなかった。
 戦況はどんどん悪くなる。
 俺たちのシュヴァルムや、グンドュラ・ラルが指揮するJG五二ウィッチ隊、それにスオムスのエース、ニッカ・エドワーディン・カタヤイネンなど一部のウィッチが戦果を挙げても、補給線が滞っていく現状を打開することはできない。
 撤退命令が出るのも時間の問題かと思われた。
「――ナオ」
 ある日ロスマンが、俺を招待した夕食の席で切り出した。
 テーブルには周辺の村から提供されたなけなしの果物類が並んでいる。ロスマンお手製のパン粉パスタはカリカリとした食感が気持ちよく、噛みしめると胡桃とセロリの香りが口に広がった。
 彼女の料理にはいつも工夫がこらされていて、物資が乏しい戦場でも日々を楽しくすごすためには手を抜かない。そんなところも尊敬していた。
「なんです先生?」
「あなたは優秀な生徒だけれど、たったひとつだけ私の教えを守ろうとしなかったわね」
「うん? なんのこといってんです?」
 小首をかしげて問いかけると、ロスマンは手のひらでワイングラスを回しながら、面白そうに微笑んだ。
「一番最初に教えたことよ。女たらしに心を許すな、ドン・ファンの甘い毒は身体をむしばむ――あなた、クルピンスキーに惚れてるでしょう」
「ぶっ!!」
 思わず口に含んだコーンポタージュを吹き出してしまった。黄色い雫がロスマンの頬に一滴かかり、鬼曹長はすっと目を細める。いや、あんたがそんな切り出しかたをするからいけないんだろうなんて思いながら、ナプキンでそっと頬を拭った。白い肌にはワインの酔いによる赤がふわりと浮かび上がっていた。
「まあ、ね。別にそれ自体に文句があるってわけじゃないのよ。他人を想う気持ちが魔法力を高めるって話もあるしね」
「はぁ……」
 思わず俺の頬も熱くなる。このひとがこうして切り出してきたのなら、今更取り繕っても無駄だろう。どんなときでも勝算がない戦いはしないひとだから。
「とりあえずひとつ教えてあげる。ハンネとクルピンスキーの間にはなにもないわ。ハンネが興味もってるのは自分の可愛い可愛いぬいぐるみだけだもの」
「ああ、あのクマさん……そうですか」
 ほっとしてこくりと水を含む。ここ数日抱えていたもやもやが少し軽くなっていくのを感じていた。命を預けるシュヴァルムのメンバーを嫉妬の目で見るなんて、息が詰まって仕方がない。
「――でも、ね」
 その真剣な声に顔を上げると、教官は空から戦場を見渡すような目で俺のことを眺めていた。
「ナオは本当にわかっているのかしら? 女たらしという人種のことを」
「――え?」
「あいつはたしかに冗談で声を掛けてるわけじゃないのよ。ナオのことも真剣に好きでしょう。でも伯爵みたいな人種は、その真剣な好きを同時に複数の女相手にむけることができるのよ」
「そのくらいわかってますよ……浮気者ってことでしょ」
 口を尖らせた俺に、けれどロスマンはぶんぶんと首を振る。
「ううん、やっぱりわかってないわ。そうじゃなくて、そもそもあいつは恋愛において誰かと一対一の関係を結びたいって欲求がないの。モノガマス――単婚主義じゃなくて、ポリアモラス――多婚主義っていうのかな」
「うん? 恋愛において一対一の関係を結ばない……?」
「そう。相手に対する独占欲も嫉妬心も持たないから、ある意味高潔な人物と呼べるのかもしれないけれどね。貞操観念なんて無駄なものも持ってないから、云い寄られればほいほい寝るし、好きだと思えばほいほい声を掛ける。だから自分が好きになった相手も、そうしていいと思っている。単純な浮気者だとか性欲魔神だと思ってると怪我するわ」
「そ、そんな……そんな恋愛関係なんて考えたことも……それってカールスラントでは普通なんです?」
「まさか。一般的ではないわよ? でも恋愛感情なんて十人十色だもの、そういうひとがいたって駄目ではないでしょ。少なくともクルピンスキーの中ではきっちり筋が通ってる」
 たしかにそうかもしれないと思ってしまった。自分が複数の相手と寝るくせに相手を縛るなら、どうしようもない奴だと怒ることもできるだろう。けれど自分も相手もそれで構わないと思えるなら、問題はないかもしれない。
 ただ一点、そういう関係が一般的ではないという点を除いて。
「どう? それがヴァルトルート・クルピンスキー伯爵よ。ついていけると思うかしら?」
 ロスマンの言葉に、俺はなにも云えずに黙り込んでしまった。頭の中で色々な想いがぐるぐる回って混乱している。誰とでもほいほいと寝る? 同時に複数の相手を本気で好きになれる? そんなことが可能だなんて思ってみたこともなかった。
 けれど考えてみればそうなのだろう。だからこそあいつは女たらしなのだろう。ひとりのひとと真剣な交際ができればたらしだなどと呼ばれない。身体目当てで空虚な言葉を投げる奴なら、俺だってこんなに惹かれるはずがない。
「ちなみに私はあきらめたわ。好きになるだけ辛いから」
「……ロスマン先生?」
 寝耳に水の言葉に思わずじっと見つめると、ロスマンはぷっと吹きだして笑い出す。
「なによ、そんな顔しないで。別に秘めた恋心なんてロマンチックなものじゃないわよ。私くらいの年になればね、先のことを考えて気持ちをコントロールすることくらい、できて当たり前なの」
「はぁ……うぅ……なんていうか、俺には色々わからないことだらけで……」
「うーん、まだ早かったかしら」
「かもしれないです、でも俺にはいくら年をとってもできそうにないです。そんな、先を見据えて自分の気持ちをコントロールするなんて、どうやったら……」
 うめくようにつぶやく俺に、曹長は涼しい顔でワイングラスを傾ける。
「あら、いつも教えてきたでしょう? クレバーに戦場全体を見下ろして、勝てるときだけ手をだしなさいってね」
 先任曹長エディータ・ロスマン。
 この戦いの前哨戦、ヒスパニア事変のころから空を飛び、階級を越えて数多のエースウィッチの尊敬を受ける大ベテラン。
 ――どうやら俺は、一生このひとにかなうことがなさそうだ。
 小学生のように小さな彼女の存在が、山のように大きくみえた。

   ※   ※   ※

 そしてその数日後、ロスマンの忠告が痛いほど身に染みる出来事が起きた。
 それは出撃から帰投して救護室の牡丹を見舞い、自分のテントに戻ろうとしたときのこと。
 そのころ俺はとうとう零式の交換部品をすべて駄目にして、仕方なくカールスラントのBf109を履いていた。だが術式が違うことからエンジンの立ち上げが上手くいかず、そのコツをカールスラントのウィッチに聞こうと思っていたのだ。
 最初は、ロスマンのところにいこうと思った。
 けれどあまり体力がない彼女は、その日の出撃でひどく疲れていたようだったから。
 俺は、クルピンスキーのテントにむかったのだった。
 その日は珍しく晴れた日で、雲ひとつない夜空に天の川が宝石のように光っていた。
 扶桑の見慣れた空とは星座の位置が少し違う。プロキオン、ペテルギウス、シリウス。『あれが冬の大三角形よ』と、姉様が昔教えてくれた。『プロキオンはこいぬ座を作っているの。ナオちゃんはこいぬみたいよね』だなんて、穏やかな顔を春のようにほころばせて笑ってくれた。
 あのころからは、随分遠いところにきたんだなと思う。
 なにもかも違ってしまっている。見上げる夜空の星座の位置も、世界情勢も、俺の心のありようも。
 あのころ俺の周囲には暖かくて柔らかい毛布のようなものがあふれていて、その中心で私は少女の夢をむさぼる子どもだった。いつか優しい王子さまがやってきて、私のすべてを理解してくれる。私をなにかもっと綺麗で可愛くて価値のある存在にしてくれる。
 そんな夢を臆面もなく抱くことができて、そうしてそれに疑問を感じないほどしあわせな日々だった。
 けれど今俺の周りにあるのは血と硝煙に満ちた戦場だ。日々ひとが減っていく野営地、けが人のうめき声、在庫が減っていく十字架。
 その中で戦う俺はがさつで粗暴な軍人だ。
 ひとを怒鳴りつけるときにも震えなくなったし、男どもの中で着替えることにももう慣れた。むきだしの太ももや胸にちらちら飛んでくる視線も、くだらねぇと鼻で笑うことができるようになった。貞淑な女らしさなんて、どこか遠い海のむこうに投げ捨ててきた。
 そのつもりだったのに。
 ――あいつは、そんな俺にむかって可愛いなんて云ったんだ。
 カールスラントの野営地を歩きながら、頭の中はいつのまにかクルピンスキーのことでいっぱいだった。
 息を吐くように『ナオちゃん可愛い』なんていってくるあの軽薄な口。ネウロイを前にしたときの、きりりと眉が上がった精悍な顔。戦いが終わってみなをねぎらうときの、穏やかであけすけな笑い顔。
 今日もまた、誘われるかもしれない。
 こんな時間にあいつのテントを訪ねるなんて、どうせまた『ナオちゃんが夜ばいにくるなんて感激だね』とか云われるに決まってる。そうしたらまた俺は一発ぶん殴って怒鳴りつけて、いつも通り否定しよう。おまえのことなんてなんとも思ってないんだと、できるだけ涼しい顔で否定しよう。
 色々と考えているうちになんだか照れくさくなってしまって、俺は手近な雪山を思い切り蹴りつける。ばしゃんと音を立てて飛び散る雪が、ネウロイの破片のようだった。
 そのとき、野営地脇の木立の中で、ひとがうごめく気配がした。
 幹にもたれた女の上にもうひとり誰かが覆い被り、熱いくちづけをかわしている。まったくこの寒いのによくやるなと通り過ぎようとしたとき、雪を蹴りつけた音に気がついたのか、上になった長身の女が顔を上げた。
 月光にまざまざと照らされる、そのすっきりと通った鼻筋。完璧な配置にある顔のパーツ。とがったあごと、ふわふわのハニーブロンド。
 クルピンスキーだった。
「――あれ? ナオちゃん?」
 伯爵は一瞬怪訝そうな顔をしたあと、すぐにいつも通りの無邪気な笑顔を浮かべた。後ろめたさや気後れを微塵も感じさせない、左右対称のさわやかな笑顔を。
「こんな時間にどうしたの? なにか相談事?」
「……あ……いや……」
 俺がなにも云えずに固まっていると、クルピンスキーに抱かれていた女が振り向いた。オラーシャの陸戦ウィッチ、なんとかロフのほうだ。白磁のような肌をピンクに染めた彼女は、いたずらっぽく瞳を回し、ぺろりと俺に舌を出す。
 その瞬間、俺は振り返って逃げ出した。背中から女たらしの声が聞こえてきたけれど、なんて云っているかはわからなかった。ただどくんどくんと鳴る心臓の音と、雪を蹴立てるやかましい音だけが聞こえていた。
 鼻の奥がつんと熱くなる。
 じわりと目尻に涙が浮かぶ。
 ――やはり俺は、ロスマンのようにはなれそうもない。
 こぼれ落ちる涙はすぐに冷えて、頬の上で氷のように冷たくなった。



 §

 五味少佐が、いかめしい顔で演説を続けている。
「われわれ扶桑海軍遣欧艦隊第二五航空隊は、こころざし半ばでこの地を去ることになる。しかしこれは敗北ではない。反撃の機会をうかがうための、勇気ある撤退なのである。われわれは再びやってくるだろう。このオラーシャの大地でひとびとが築き上げてきた歴史を取り戻し、祖先の英霊を奉るために――」
 一九四一年一二月一〇日。
 連合軍統合司令部は、ついにバルバロッサ作戦の停止を決定した。
 長ったらしい演説は、半分も耳に入っていなかった。頭の中に氷がつまっているような感覚。命を賭してきた戦場を後にするというのに、なんの感慨も抱けない。ただこれでJG五二の連中とも縁が切れるかもしれないと思うと、安堵感と寂寥感のあわさった不思議な気持ちがわき起こる。
 隣で橘牡丹があくびをかみ殺しながら立っている。まだ松葉杖はついているが回復は順調で、疵痕も残らないとのことだった。
「それでは本時刻より撤退作戦を開始する! 各自持ち場に戻れ!」
 五味の号令に兵士たちが一斉に敬礼を返し、野営地のあちこちに散っていく。
 俺が臨時に組み込まれているカールスラントJG五二第六中隊は、この撤退部隊のしんがりを任されていた。
 もっとも危険かつ重要な役目。
 それも当然の話で、クルピンスキーを筆頭にした俺たちの中隊は、バルバロッサに従軍した全部隊でもトップクラスのスコアを稼いでいたらしい。
「あんまり無茶しないでくださいね、管野少尉。せっかくたくさん勲章もらえるんですから、ちゃんと自分で受け取らないと駄目ですよ」
「わかってるよ、心配するな」
 余計な心配をする牡丹の額にでこぴんを繰り出す。鈍くさい彼女は回避もできずに被弾して、「あたっ」なんてつぶやいた。
「よかった、今日はちょっと元気?」
「ん?」
「いえ、少尉最近ずっと、追い詰められたような顔をしてたから」
 牡丹は額を押さえながら、上目遣いにそう云った。

 あの日以降、クルピンスキーとはろくに話をしていない。
 共に戦場にでているのだから、必要最低限の話はする。戦術の確認、機材の調整、当番やルーチンワークの相談。けれどそれ以外の話を振られても、俺はほとんど生返事で突き返した。そのたびクルピンスキーはおどけてみせたり謝ってみせたり真剣に事情を聞いてきたりしたけれど。
 ――その口が。
 その言葉を紡ぎ出す、クルピンスキーのくちびるが。
 他の女の口をふさいでいたのだと思うと、胸の奥がどうしようもなく暴れだし、泣きながらすがってしまいそうになるのだった。
 本当に、心の底から嫌になる。
 俺は完全に面倒くさくて性格が悪い女そのものだった。いくら自分のことを『俺』なんて呼んでも、ネウロイを素手でぶん殴っても、俺の性格の根幹はあの恋に恋する少女のまま、なにも変わってないのかも知れない。
 そこをいくと口調も見た目も女らしいロスマンのほうが、よほど俺より男らしい。クレバーに物事を切り分けて、しなければいけないことだけをする。
 では男らしいとはなんなのか。女らしいとはなんなのか。戦いは男がするものなのか。それとも女がするものか。
 もう、俺にはわからない。
「きたわね、ナオ」
 格納庫代わりの工場に入ると、エディータ・ロスマンがそこにいた。チェックシートを眺めながら、寒い格納庫でひとり、Bf109E-4の機体点検を進めている。
「早いですね、ロスマン先生」
「そう? 私はいつもこのくらいから点検してるわよ?」
「……そうですか」
 そのままふたり、かちゃかちゃと機体点検を進めていった。俺が借り受けたBf109Fは新型で、ロスマンのE型よりも性能は高い。けれど彼女は使い慣れた機体のほうがいいと、いまだにE型を使っているようだ。
「ねぇナオ」
 バインダーに視線を落としながら、ふとつぶやくようにロスマンが云った。
「なんです先生」
「私たちってさ、ずっとこの雪原を進撃してるみたいじゃない?」
「はぁ?」
「乏しい物資を背中に負って、どこともしれない目的地にむかって進んでいくの。周りなんて炊事の煙ひとつ上がらない白一面の大雪原、たまにユキウサギやテンの姿がみえるだけで、ひとっこひとり見あたらない。凍えそうに寒くって、誰かに暖めて欲しいって思うけど、でも結局自分ひとりしかいないから、なんとか暖を取って進んでいくしかないんだわ」
「なんですそれ、もしかして人生のたとえ話ですか? 先生も意外と詩人なんですね」
「なによ、あなたほどじゃないわ。まぜっかえさないでよ」
「……すいません、続けてください」
「ふんっ、もうほとんど終わり。でもこんな土地にもいつか春がくるって続けようと思ったの」
 少しふてくされたように云ったロスマンが可愛らしくて、思わずぷっと吹き出してしまった。教官は頬を膨らませてにらむけれど、俺はそれを無視してごろんと転がる。石の床は冷たくて、じっとしていると凍えそうになる。
「……春、かぁ……。俺たちはここの春は拝めそうにないですけどね」
「そうね。それでもいつかくることには違いないでしょう? だからそれまではね、自分の身体は自分で暖めるしかないの。あなたの身体を守れるのはあなた自身のシールドよ、ナオ」
「俺自身の……」
「だからちゃんと使い方を身につけなさいってこと。多分これが、私からの最後の忠告」
「……ありがとう」
 風からも吹雪からも瘴気からもこの身を守ってくれる、俺たちのシールド。柔らかくて傷つきやすくて未完成で、貫かれたら簡単に血を流して死んでしまう心と身体。
 俺たちはこの弱くてもろい少女の季節にだけ、身を守るための魔法力を持っている。
 それはもしかしたら偶然じゃないかもしれないと、そのとき俺はぼんやりと思ったのだった。
 と、寝っ転がって逆さまになった視界の中で、格納庫の扉ががらりと開いた。外の光を背中に背負って、すらりとした影の輪郭線が白く輝く。
「あれ? なんだふたりとも早いじゃない。どんな風の吹き回し?」
「……クルピンスキー」
「ん」
 クルピンスキーは俺に小さくうなずき、つかつかと格納庫に入ってくる。ポケットに手を突っ込んで丸めた背中。伸びた前髪が目を覆っていて、表情はよくわからない。
 クルピンスキーも、俺が自分を避けてる理由なんてとっくにわかっているのだろう。最近はあまり話しかけてくることもなくなった。それどころか、以前のように笑っているところを見かけない。あの無駄にさわやかな左右対称の微笑みを、浮かべているところを見たことがない。
 悪人だというわけじゃない。それどころか優しくて気配りができるいいやつだ。ただちょっと女好きで、同時に何人でも好きになることができるだけ。女たらしだというだけだ。
 俺のことを本当に好きだと云ってくれた。可愛いと誉めてくれて、いくらだって俺が欲しいと云ってくれた。
 なのにそれを拒否したのは俺自身だ。
 一度でも彼女の誘いにのっていったら、今頃どうなっていただろう。それを思うと、自分が失ったものにたいして惜しむ気持ちが少しだけ沸く。けれど今となってはもう、時を巻き戻すことはできないのだから。
「ふん、別に早くねぇよ、おまえが遅いだけだろ」
「お?」
 目を丸くした伯爵に、俺はニヤリと笑いかける。転がったまま腕の力だけで飛び上がり、クルピンスキーの発進ユニットに歩いていくと、チェックシートが挟まったバインダーを投げつけた。
「ほれ、ちゃんとチェックしろよ“ユニット・ブレイカー”、空でユニット壊しても助けねぇからな」
 バインダーを片手で受け止めたクルピンスキーが、やがておかしそうに笑い出す。
「ナオちゃん……ふふ、ナオちゃんにだけは云われたくないよねそれ。ブレイカーとデストロイヤーじゃそっちのほうが怖そうだよ」
「なんだとっ!」
「おお、怖い怖い。私のことはデストロイしないでよね」
「はいはい、どっちも大して変わらないから喧嘩しないの。それよりハンネはどうしたのよ。あなたあの子と相部屋だったでしょ」
「うん、出てくるときにはまだ例のクマさん抱きしめて夢の中だった」
「起こしてきなさいよ!」
「えー、やだよー、あの子の寝起き最悪だってパウラも知ってるよね?」
 ふたりの話を聞いているうちに、少しだけ心が軽くなる。
 結局ロスマンの忠告は、いつもどんなときでも正解なのだ。
 俺はシールドの使い方を身につけよう。
 ――自分を守るために。
 ――相手を守るために。
 むきだしの心は、傷つきやすくてもろいから。
 その後ハンネ・ダンマースが寝ぼけまなこで現れたとき、格納庫はユニットの排熱で十分暖かくなっていた。



 §

 撤退戦は続いていった。
 一時はトベリ近郊、ヴォルガ川沿いのノヴォザヴィドフスキーまで進出していた前線を畳み、潮が引くように来た道を戻る。
 けれどそれはただ来て帰るというだけではない。構築してきた戦線には防衛隊も置かれているし連絡網も張り巡らされている。それらの人材を回収し、機材の大半は捨て去り、再びひとが住む土地となるはずだった村や町をネウロイに明け渡す。
 気が滅入る戦いだった。
 しかも来たときには通れた道が豪雪で埋まり、迂回を強いられることもしばしばだった。氷結した川や湖を地上型ネウロイが踏破し、思わぬところから奇襲を受けることもあった。
 先遣隊も防衛隊も俺たちしんがり部隊もボロボロで、俺はまた二機、クルピンスキーは三機のユニットを全損させた。部隊ではデストロイヤーとブレイカーのどっちがよりユニットを壊すかで、賭けが行われていたほどだった。
 だがそんなことで気晴らしでもしなければやっていられなかったのだ。
 ネウロイの再侵攻速度は速く、凍結した川を渡っての前線構築は迅速だった。設置されたテレポーターから航空ネウロイが転送されて、取り残された部隊をピンポイントで叩く。そのたび俺たちは東へ西へ飛んでいって迎撃する。しかも敵勢力は日増しに強大になっていき、当初は中型ネウロイが小型ネウロイを指揮する部隊がほとんどだったのが、次第に中型ネウロイだけで編成された部隊が現れるようになっていた。
 俺たちはせき立てられるように逃げ出した。
 速く。
 もっと速く。
 敵に追いつかれる前に。
 目指すは最終防衛都市ペテルブルグ。
 そしてその南東一〇〇キロ地点を流れるヴォルホフ川を渡ること。
 イリメニ湖とラドガ湖を結ぶその川が、この東部戦線における絶対防衛線だった。

   ※   ※   ※

「――はっ、剛毅なことだなぁおい」
 ノヴゴロド近郊、クレスツィの街を出た辺り。
 空中でホバリングしながら、グンドュラ・ラルが吐き捨てるようにつぶやいた。
 にらみつける南東の空には、ネウロイが雲霞のごとく集まっている。一体どれほどいるのか見当もつかない。ネウロイはなにかの自然現象かと思うほど空を黒く埋め尽くし、俺は『蚊柱のいしずえとなる捨て子かな』という芥川の句を思い出している。
「んー、小型が一五六七、中型が四四一、大型が三八います。勲章の大盤振る舞いですね、がんばりましょう」
「なに? 今の一瞬で数えたのか?」
 近くにいたオラーシャのウィッチに、ラルが振り返って問いかける。問われたウィッチはビスクドールのように整った顔をふわりとほころばせ、甘い声でくすくすと笑う。
「ええ、わたしは映像記憶能力の固有魔法を持っているんです」
「ほう、そうかおまえがポクルイーシキン大尉か」
「はい、以後お見知りおきを、グレートエース」
 その穏やかな話しかた、微笑むだけで周囲が明るくなる華やかさ。どことなく姉様に似ている。思わずじっと見つめていると、ポクルイーシキンもやがて俺に気がつき、にっこりと笑いかけてきた。慌てて視線を逸らすと、そこにニヤニヤと笑うクルピンスキーの顔がある。
「ふふ、彼女可愛いね。ナオちゃんはああいう子が好みなの? なら私も髪伸ばしてみようかなぁ」
「うっせぇ! そんなんじゃねぇよ! 云っとくけど、あのひとに手出したらぶっ殺すからな!」
 怒鳴りつけると、周囲から呆れたようなため息と笑い声が聞こえてくる。
 その場にはスオムス、カールスラント、オラーシャ、扶桑と四カ国のウィッチが集結していた。索敵や掃討にでていたウィッチたちもすべて集まり、最後の追撃を押し返すために統合ウィッチ隊司令グンドュラ・ラルの号令を待っていた。
 ゴールラインはすでに目前。
 後方には半ば凍りついたイリメニ湖と、湖畔に広がるノブゴロドの町並み。そしてそこにむかうバルバロッサの多国籍軍。はるか遠くにヴォルホフ川の流れがうっすらと見える。
 前方には追撃にやってきたネウロイの群れ、群れ、群れ。
 それは迫り来る絶対的な死だ。
 まるで蒼ざめた軍馬の軍勢だ。
 けれどそれを迎え撃つ俺たちウィッチに、悲壮なところなどまるでなかった。誰もが自分たちにはなんでもできると信じていた。不可能なことなどなにもないし、どんな奇跡だって起こせると確信していた。
 なぜなら俺たちは、ウィッチだったから。
「――全機攻撃開始! 化け物どもを地面にキスさせてやれ!」
「おおおおーーーーっ!!」
 叫んで、飛ぶ。
 珍しく晴れたオラーシャの空に、一〇〇の飛行機雲がたなびいていく。
「おい、おまえが“デストロイヤー”のカンノか?」
 いつものシュヴァルムで飛んでいると、ふいにひとりのウィッチが近づいてきて、俺に声をかけた。スオムスカラーのセーターに、アッシュブロンドのショートカット。すっきりとしたうなじには、どこか少年のような無邪気さが感じられる。
「そうだが、誰だおまえ?」
「ニッカ・エドワーディン・カタヤイネンだ。名前くらいは聞いたことあるだろ」
「ああ、ユニット壊しすぎて掃除当番やらされてたっていう……」
「だー! どんな覚えかただよ! いいか、ユニット一機あたりの撃墜数じゃ、このニパのほうが上なの!? 今日こそ白黒はっきりつけてやるからな。それだけ!」
 そんなことを一方的にまくしたて、カタヤイネンはふらりと自分の部隊にもどっていった。にらみつけられた俺とクルピンスキーは、呆然とその後ろ姿を見守っていた。
「……なんだあれ?」
「さぁ? でも可愛い子だったよね」
「そればっかりかおまえはっ!!」
「ふふ、ユニット壊し同士、仲良くしたいんじゃないの? それより集中してふたりとも。接敵近いわよ」
「アイアイ、先生」
 平行に飛んでいた各部隊のウィッチたちが散会し、それぞれ空に散っていく。一番槍を競うスピードスターたち、魔眼を発動して陣容を探る司令官。ひとりひとりのウィッチに、それぞれ別のやり方がある。
 俺たちは仰角をとって急浮上、限界高度ぎりぎりを飛んで戦場を見まわした。
 クレバーに戦況を見極め、勝てるときだけ攻撃せよ。
 すでに戦闘は始まっており、そこかしこでネウロイが散って雪のような結晶をまき散らしている。その合間から、ユニットが壊れるときの噴煙が上がる。ふと空の一角で大きな火球がふくれあがり、ネウロイの群れを飲み込んだ。あんな攻撃魔法を持つウィッチがいるのだと、少しだけ驚いた。
 クルピンスキーが手振りで俺たちに指示を出す。目標は敵陣営左舷中央の大型ネウロイ。ウィッチたちがビーム砲にはばまれ近づけない間に、小型ネウロイにひっかきまわされて陣容が崩れかけている。
 目配せをしあって、急降下。
 俺は重力に曳かれて大地に落ちる、一発の銃弾へと変わっていく。
 けれどクルピンスキーはさらに速い。
 そのすらりとした背中が、視界からぐんぐん遠ざかっていく。
 追いつこうとしても追いつけない。
 いっぱいに手を伸ばしても背伸びしても、あの背中には届かない。
 あいつの隣に並びたい。
 たとえあいつが、どこか別のほうをむいていたとしても。
『――集中!!』
 インカムにロスマンの声が聞こえてきて、その瞬間俺は雑念をすべて捨て去った。本当に、この部隊にいられてよかったと思う。視界の中心に、黒光りする大型ネウロイの姿を据えた。頭の中が、今日の空のように透明に澄んでいく。
 雷光、一閃。
 クルピンスキーが強襲をしかけて低空に抜けた。まるでソニックブームのように一瞬遅れて、ネウロイの体表がはじけ飛ぶ。ダンマースが追撃。だがその頃にはネウロイもこちらに気づいていた。
 空に赤光。
 素麺のようなレーザービームが、折れ曲がりながらダンマースがいる地点へ収束していく。ロール、ロール、サイドスラスト、回避、回避、捕捉されてシールド展開。
 その影から俺が突っ込む。砲門はほとんどダンマースにむいたまま。密着して表皮すれすれを飛行、屈折ビームではたき落とされないように。再生が完了するまえにコアを探さなければいけない。
『ナオ、七時方向二〇メートル!』
 反射的に足を開いて急旋回。視界にネウロイのコアを捉えた瞬間、レーザービームの照射を浴びる。即座にシールドを大きく張って防御。俺だって、自分の身体を守れるくらいには強くなったんだ。
「じゃあなネウロイ、もうでてくんな」
 コアに九九式の銃口を突きつけ、弾丸と言葉を吐き捨てる。そのすべてを飲み込んで、ネウロイのコアがぐしゃりと潰れる。
 次の瞬間、花火のような音を立てて巨大なネウロイの身体が爆ぜた。
 周辺のウィッチたちから歓声が上がった。押されていた鬱憤を晴らすかのように、次々と小型ネウロイを墜としていく。あとで聞いた話だが、どうやらこれがこの日の大型ネウロイ初撃破だったらしい。
『おお、やったじゃないかナオちゃん』
『俺の星じゃないだろ、どう考えても共同だ』
『どっちでもいいよ、次いこ次っ!』
 ダンマースがくるりと足を抱えて回転し、猫が飛びかかるように次の獲物へむかっていく。
 戦いは乱打戦に入っていた。
 飛び、駆けて、撃って、墜とした。
 小型も中型も大型も、爆撃機タイプも高速戦闘型とも戦い、損害を受けながらも墜としていった。多少シールドを使えるようになっても、生来の猪突猛進の気性は変わらない。気づけば俺もクルピンスキーも傷だらけになっていて、まだユニットが無事なのが不思議なくらいだった。
 周囲でネウロイの爆ぜる音が聞こえる。それと対空砲火の発射音も。だがそれらの音の間から聞こえてくるのは、ウィッチのシールドが割れる音、ユニットに被弾してエンジンが爆発する破裂音、痛みと衝撃に漏らしたウィッチたちの悲鳴。
 一度危ないところで対空砲火に助けられたことがあった。低空で待ちかまえていた小型に死角から迫られ、まずいと思った瞬間そのネウロイが弾けて消えた。
 反射的に視線を地上にむけると、そこにばかでかい五二-K八五ミリ高射砲を抱える陸戦ウィッチの姿があった。雪のように白い肌、アッシュブロンドの長髪を束ねるピンクのリボン。クルピンスキーとキスをしていた陸戦ウィッチ、アスモロフだった。
 ウィンクをして親指を立てるアスモロフに、俺も同じ動作を返して飛び上がる。
 クルピンスキーたちの元へむかいながら、ふと彼女の立場になって考えてみる。
 さぞや俺のことが憎いだろう。
 クルピンスキーと同じ航空ウィッチ隊で、四六時中一緒に飛んでいる。女らしく着飾る努力もしてないくせに、伯爵の気持ちをもらっている。
 俺のことを憎んでいても当たり前なのに、それでも彼女は助けてくれたのだ。
『ナオちゃん、大丈夫だった? 被弾してない?』
『ああ、陸戦ウィッチに助けてもらったよ』
『そう、よかった。ほっとしたよ。可愛い顔にまた傷ついちゃったら大変だもんね』
『……おまえが悪い』
『は?』
『全部おまえが悪い』
『ちょっと、どういうことさそれ、意味わかんないよ』
『いいえ、あんたが悪いわプンスキー伯爵。どんなときでもあんたが悪いのよ』
『パウラ……』
 困ったような声のクルピンスキーに、思わずくすりと笑みが漏れる。そんな風に誰かのせいにできたら楽だろう。でも本当は多分違う。きっと誰も悪くない。
『この戦いが終わったら教えるよ。次の獲物はどっちだ、悪い王子さま』
『お、伯爵から王子さまに格上げ? 嬉しいねぇ』
 そんなことをうそぶいて、ホバリングしていたクルピンスキーは太陽のほうに飛んでいく。陽を浴びてBf109のエンジンカウルがきらりと光る。
 それがまぶしくて、俺は少しだけ眼を細めた。

 戦いの情勢は、どうやら人間側に傾いてきたようだ。
 大型ネウロイさえ墜とせば後は一騎当千のウィッチたち、雑魚相手には優位に立った。相手は司令塔を失って散漫な攻撃を繰り返す。だがこちらは連携して弱点を叩く。
 はじめて会ったはずの異国のウィッチ同士が、まるで訓練学校からの戦友のように互いの背中を守り合っていた。空中ですれ違おうとしたウィッチたちが腕を絡めて速度を交換し、別方向にはじけ飛ぶ。臨時に組んだ一〇人編隊で、全方位から大型ネウロイを攻撃する。曲技飛行でしかみられないような機動が、そこかしこで見受けられた。
 空を埋め尽くさんばかりだった敵機は次第に減っていき、ウィッチたちの数も少なくなった。例のニッカ・エドワーディン・カタヤイネンも撃墜されたらしく、橇に乗せたユニットの残骸を自分で曳きながら、しょんぼりとノブゴロドのほうに歩いていった。
『――大丈夫か、ロスマン先生』
『だ、大丈夫。まだいけるわ』
 体力の低いロスマンは、顔を青くしながらも飛び続けていた。だが彼女がまだいけると云うなら、きっとまだいけるのだろう。いつだって自分のことをわかっていて、無茶はしないひとだから。
『ああ、とっとと終わらせてワインでも飲みたいわ。ペテルブルグにはいいグルジアワインの一本くらいあるんでしょうね』
『お、それいいね。ウォトカ、ブランデー、サルミアッキ・コスケンコルヴァ。みんなで祝杯上げようよ』
『あー、あたし久しぶりにパウラの手料理食べたい!』
『ふふ、いいわよ、腕によりをかけ――』
 だがロスマンは、その台詞を最後まで云い切ることができなかった。
 空のむこうから飛んできたレーザービームが、突如彼女を襲ったからだ。
『――くっ!!』
 反射的にシールドを張ったのはさすがだろう。だがやはり体力が限界だったのか、シールドは保持しきれずに弾かれた。
『ああっ!!』
『ロスマン!!』
 インカムから聞こえてくる悲鳴。墜ちていくエディータ・ロスマン。破壊されたユニットが上げる、薄煙に包まれて。
 近くにいたダンマースが、慌てて落下地点に急降下。地面に激突する寸前、彼女の身体を抱え込む。
『――生きてるっ!』
『……ごめん、油断した……』
 その声は息も絶え絶えという様子だったが、意識はしっかりしているようだ。俺は凍りついた背筋を無理矢理動かしながら、空のむこうをにらみつける。ロスマンのことは心配だったが、墜ちたウィッチにかまけていられるほど戦場は平和な場所じゃない。
『……見えるか、伯爵』
『うん、全身が主砲みたいなやつだ。やっかいだね、あの距離であの威力なんて』
 それでもやるしかなかった。
 俺とクルピンスキーでロッテを組んで突撃。DB601がフル回転する。栄二一が優雅なサラブレッドなら、こいつはとんだじゃじゃ馬だ。零式には不可能な加速度で飛び、飛んできたばかでかいビームを散開してかわす。
 そのころには他のウィッチも救援にきていた。みなで黒光りする杯のような大型ネウロイにむかっていく。だがふいに敵の周辺から、すだれのようなビームが一斉に四方へ放たれる。空のあちこちでシールドが張られ、被弾したウィッチが墜ちていく。
『なんだこいつ、あの主砲だけじゃないのか!』
 近づいてみてはじめて、その攻撃の源がわかった。
 巨大な主砲を持つネウロイの周囲に、その子機らしい円盤状の機体が数え切れないほど浮いている。
『ずるいねこいつ、隙がないじゃないか!』
 けれどクルピンスキーはそんなことを叫びながらも、子機のビームを華麗にかわして一体一体墜としていった。果敢な突撃が信条のクルピンスキーだが、それが効果的なのは正確無比な射撃技術に支えられているからだとよくわかる。隙がないのも色々な意味でずるいのも、あんたのほうじゃないかと突っ込みたくなった。
 ――だが、俺だって油断していたわけじゃない。
 別にクルピンスキーに見とれて気を抜いていたわけじゃない。
 意識は目の前の敵に集中していたし、持てる力をすべて振り絞っていた。
 だからその状況に陥ったのは、ひとえに俺自身の未熟さによるものだ。
「――ジャムった!?」
 子機にむけて引き金を引いた瞬間、がつんと音を立てて排莢が止まった。動作トラブルで弾が撃てなくなる現象、ジャムだ。即座に射撃をあきらめて最接近。全身を覆うシールドを拳に集めてぶんなぐる。
『ナオちゃん!』
 そのとき声が聞こえて、反射的にふりむいた。
 眼前にいる二体の子機が、銃口をこちらにむけていた。
 右手にはジャムったままの九九式。
 左手はシールドを固めたままの握り拳。
 ――間に合わない。
 回避することも、シールドを張り直すことも間に合わない。
 ビームで視界が真っ赤に染まり、そのとき俺は即座に自分の死を受け入れた。
 ――けれど。
 次の瞬間、突然身体が柔らかいもので包まれたのだった。
 ふわりと漂う麝香のような香水の香り。顔に押しつけられた胸の丸みと、後頭部を抱えこむ細い腕のしなやかさ。
 顔を上げると、視界がなにか美しいものでしめられていた。きりりとした目尻と通った鼻筋、色素の薄いくちびると、すっきりとしたあごの線。そうしてふわふわになびく、絹のように細い金髪。
 その顔が、苦悶の表情にゆがむ。
「――ぐっ!!」
「クルピンスキーッ!!」
 俺を守るように抱きしめたクルピンスキーが、ビームの直撃を受けて悲鳴を上げていた。
 次の瞬間、その抱きしめる腕から力が抜ける。
 木の葉が舞うように、ふらりと空を墜ちていく。
「クルピンスキーーーッ!!」
 ドンドンと爆発音が聞こえ、子機が爆発してはじけ飛ぶ。撃ったカールスラントのウィッチが、墜ちていくスーパーエースを驚いたような目で眺めている。
 けれどその光景も、俺の視界にはほとんど入っていなかった。
 ただ墜ちていくクルピンスキーの、脱力した手足だけを見つめていた。
 ――どうして。
 墜ちる彼女の元へ一直線に降下しながら、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
 どうしてあいつはあんなことをしたんだ。俺をかばって被弾するなんて。あいつのほうがよほど俺より強いのに。よほど戦力になってよほど綺麗で、よほど多くのひとに愛されているのに。
 ぴちゃりと頬に血がかかる。墜ちていくクルピンスキーが垂れ流す血だ。好きになったひとの命の証が、空中にまき散らされて消えていく。
 それに気がついた瞬間、俺の目からも涙がこぼれ落ちていた。
「クルピンスキーーーーーッ!!」
 激突寸前に抱き留めたその身体は暖かく、いまだ命の灯火を失ってはいなかった。けれど身体は力が入らないように脱力し、額からはだらだらと血を流したままだった。
「……ナオ、ちゃん?」
 クルピンスキーは閉じていた瞳をうっすらと開ける。焦点が定まらないように視線をさまよわせたあと、俺の目を見つめてにっこりと笑った。
「……よかった、無事だったんだね……」
「無事だよ! 俺は無事だよ! いいからもう喋るな!」
 涙を振り払いながら泣き叫び、救護テントのほうに引き返す。全力で飛びながら、けれどクルピンスキーの身体を揺らさないようにそっと。
 腕の中のぬくもりをこんなに大切に思ったことはない。かつて扶桑で、姉様が産んだ赤ちゃんを抱きしめさせてもらったときも、こんなに手が震えそうになったりはしなかった。
「……あはは、おかしいね。今までたくさんの女の子をお姫さまだっこしてきたけれど、してもらったのははじめてだよ……」
「おまえ、この期に及んでそんな……もう喋るなってばっ!」
「いいんだ、多分私はもう、もたないから……」
 蚊の泣くような声でそう云って、クルピンスキーは眼を伏せる。
 その言葉に涙がより一層あふれ出し、血に染まった美しい顔にぽたぽたと降りかかる。
「なんで……なんでなんだよクルピンスキー。なんで俺なんかを助けようとするんだ! 今だって……最初に会ったときだって!」
「ふふ……それも最初に云ったよね? こんな可愛い子を見殺しになんてできないってさ」
「嘘つけ! 俺のどこが可愛いって云うんだ!」
 ぎゅっと眼をつぶりながら叫ぶと、頬に柔らかい手が当てられる。クルピンスキーはそっと俺の涙を拭い、くちびるを笑みの形につり上げた。
「世界で一番可愛いさ……だってぼろぼろに傷つきながら、自分を守るためのシールドで敵をぶんなぐってるんだよ? そんな女の子、可愛くないわけないじゃない……」
「……クルピンスキー……」
 胸の中につまっていたなにかが、涙と共に流れていくのを感じていた。可愛いとか可愛くないとか、女らしいとからしくないとか、ずっとわだかまりになっていた俺と私の境界が、溶けていくのを感じていた。
 結局男と女の違いに一番こだわっていたのは俺のほうだ。可愛くなれない自分が嫌で、女らしくなれない自分が嫌で、でも女だと見られるのも好きじゃなくて、女としての役割なんて果たしたくなくって。
 でもそんな俺のすべてをまるごと、クルピンスキーは可愛いと云ってくれたんだ。
 俺は私じゃなくて俺だけど、きっともっと可愛くしたっていい。
 これからは、そう思うことができる気がした。
「ああ、でも心残りだよ……こんなことになるなら、ナオちゃんのくちびるもちゃんと奪っておくべきだった……」
「お、おい……なんだよそれ……おい……」
「キス……してくれないかナオちゃん……冥土のみやげにさ」
 怒っていいのか泣いていいのか笑っていいのかわからなかった。
 こんな場面でこんな言葉にどんな反応を返せばいいのかわからない。
 ただ死に瀕してまで女の子を口説こうとするドン・ファンの心意気に、尊敬の念すら感じていた。
「……ばかやろう」
 そうして交わしたはじめてのくちづけは、血と涙の味がした。

   ※   ※   ※

「――ナオっ!! 伯爵は!?」
 救護テントにたどり着くと、中から全身に包帯を巻いたロスマンが飛び出してきた。俺はなんと返したらいいのかわからず、ただ瞳をうるませながらうなずいた。抱えたクルピンスキーの身体はまだ温かかったけれど、とうに意識を失って腕の中でみじろぎもしなかった。
 けれどロスマンは、そんな伯爵の顔をじっと見つめて眉を寄せたのだった。
「……んん? クルピンスキー?」
「え? ロスマン先生?」
 予想と違う彼女の反応に、思わず間抜けな声を出す。
 もっと嘆き悲しむかと思っていたのに。
 眉をひそめてクルピンスキーを見ていたロスマンは、なぜだか次第に不機嫌そうなジト眼になっていく。なんだろうと思ってみていると、やがて地の底から響くような声でつぶやいた。
「……おい、そこのニセ伯爵。いつまで狸寝入りしてるつもりよ」
 その瞬間、腕の中の身体がぴくりと震えた。
 出血は止まったはずなのに、なぜだか顔がみるみる青くなっていく。
 この寒いのに、なにやら額に汗も浮かんでいるようだ。
「ふん、騙されないでナオ。その女たらしはね、今まで五回ほど手ひどい墜落をして、その五回ともぴんぴんして帰ってきてるの。そのたび戦傷勲章の受勲を断ってきたくらいなんだから」
「えっと……」
「多分そいつ、超防御力の固有魔法でも持ってるのよ」
 云ってることがよくわからなくて、じっとクルピンスキーの顔を見つめていた。やがて瀕死だったはずのドン・ファンは、耐えられなくなったようにくすくすと笑い出し、ぱっちり眼を開けて俺の腕から飛び出した。クルピンスキーは唖然とした俺の前でまるで怪我ひとつないかのように着地し、優雅に振り返ってウィンクひとつ。
「ふふふ、初めてを色々ありがとうナオちゃん、ごちそうさま♪」
 そう云って、くちびるにそっと手を当てたのだった。
 俺は意味がある反応がなにもできずに、ただただぽかんと口を開け、テントに入っていく伯爵の後ろ姿をみつめていた。
「ちょ、ちょっと! なにを上げたのよナオ!」
 慌てたように叫ぶロスマンの顔をみて、伯爵が消えていったテントの入り口をみて、またロスマンの顔をみて、俺はへなへなとへたりこむ。安堵感と脱力感で、立っていられなくなっていた。
「……はは……なんだあいつ……マジで?……なんだあいつ……」
「まったく、だから何回も云ってきたでしょう、あいつの言葉を信じるなって」
 ――ああ、そうなんだ。
 ロスマンの言葉はいつでも正しい。
 空ではグレートエースのグンドュラ・ラルが、獅子奮迅の働きで例の大型ネウロイを墜としていた。



 §エピローグ

 そんな風にして、俺のバルバロッサは終わった。
 だがその後も防衛線の構築やら部隊の再編やら色々あって、俺はしばらくペテルブルグで戦いを続けていった。
 その間にも色々なことがあった。
 ニパ――ニッカ・エドワーディン・カタヤイネンと意気投合し、クルピンスキーとまとめて『ブレイクウィッチーズ』なんてあだ名をつけられたりもした。ニパのためにクルピンスキーが無理矢理ユニットを強奪してきて、それがばれて後方まで補給にいかされたこともあった。
 サーシャ――ポクルイーシキン大尉には目をかけてもらい、色々世話を焼かれたりもした。彼女は親しくなればなるほど姉様に似ていることがわかり、にっこりと微笑まれるだけで反抗する気持ちも失せてしまう。そのたびクルピンスキーは俺のことをからかって、俺は拳を振り回して追いかける。そんな日々だった。
 けれどどんなに平和な日々が戻っても、俺はクルピンスキーがあの日ついた嘘を許しはしなかった。
 きっと一生許さないことだろう。
 やはり女たらしはひとの心をもてあそぶ、最低最悪の人種だ。
 俺はなんだかんだでアスモロフとも仲良くなって、よくふたりで酒を飲みながら伯爵の愚痴を並べ立てた物だった。そんなときはたいていロスマンもふらりとやってきて、あの稀代の女たらしが新人時代いかにひどかったかを教えてくれた。
 そんな俺たちの嘆きもよそにドン・ファンは町中の女に声を掛け続け、俺たち『プンスキー伯爵被害者の会』のメンバーも日に日に増えていったのだった。もっとも、ロスマンだけはそんな会に入会した覚えはないと、かたくなに拒んでいたけれど。
 だがやがてペテルブルグの情勢も落ち着くと、俺は牡丹と共に扶桑へ戻った。
 なにやらごてごてと勲章をもらったけれど、一体なにをもらったかはあまり覚えていない。全部実家の倉庫に放り込み、悲しむ姉様の涙を振り切って再び欧州に舞い戻った。
 またペテルブルグに帰りたいという気持ちもあったけれど、すでに都市にはオラーシャとスオムスを中心とした防衛部隊が結成されており、扶桑の手助けはいらない状態だった。俺は扶桑海軍のエースのひとりとして、主に地中海沿岸を救援のために渡り歩いていった。
 ときにアフリカに、ときにロマーニャに、ときにヒスパニアのピレネーに、またマルタ島の防衛に。
 そうして二年の年月が流れた。
 あのとき子どもだった俺の身体も少しだけ成長し、性格もずいぶん丸くなったはずだ。髪も女の子らしく少し伸ばしたボブカットに変えて、ネウロイもあまり素手では殴らないようにした。
 ロスマンと比べたら性格は全然女らしくないし、クルピンスキーと比べたら体つきだってまだまだ子どもだ。でも俺はそんな自分の身体を好きになることができていた。戦場の中で女でいることを、肩肘張らずに受け入れることができるようになっていた。
 けれどときどき、無性に懐かしくなるのだった。
 あの極寒の雪原を。
 凍えながら強い酒で暖を取り、空きっ腹を抱えて飛んだ戦場を。
 自分の身体は自分で守りなさいと教えてくれた、小さくて厳しい先生を。ぬいぐるみ好きの機敏なウィッチを。すぐユニットを壊してはへこむ、真面目で「ついてない」大エースを。穏やかな微笑みですべてを許す、クマを使い魔にした可憐な少女を。苛烈な号令で部隊を奮い立たせる、人類第三位の撃墜数を誇るグレートエースを。
 そうして俺が自分の身体を受けいれるきっかけをくれた、女たらしの王子さまを。
 思い出すたび懐かしくなって切なくなって、ぎゅっと胸を押さえる日々が続いていた。
 ――そんな折のことだった。
 俺の手元に、第五〇二統合戦闘航空団への召集令状が届いたのは。

「久しぶりだね、ナオちゃん」
「ああ、久しぶりだな」
 ペテルブルグの古い要塞前、聞こえてきたアルトの声に振りむくと、そこに懐かしい顔がそろっていた。ロスマン、ニパ、サーシャ、ラル少佐、そしてクルピンスキー。
「ふふ、髪伸ばしたんだね、可愛いよ」
「開口一番それかよ! この女たらしが!」
 拳を握りしめながら叫んで、俺はみんなのところに駆けだした。


(了)


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