あなたのためにできること
ねえ、エイラ。だから私もあなたの幸せを一番に願いたいの。
ときとしてぼんやりと、窓の外の青空をみつめるのが彼女の癖であることに、気づいている人は果たしてどの
くらいいるのだろうか。もしかしたら彼女をよく知る人はみんな知っている昔からの癖で、だからこそ誰も口に
していないだけなのかもしれない。そもそも私は彼女以外の人と親しく話すことすらまれであったし、話したと
しても基本的に聞き役に回ることが多かったから、そのような話題にすら至らないだけなのかもしれなかった。
ねえ、エイラ。またあなたは「あちら」にいっているの?
そして今日も私はそんなことを思いながら傍らの彼女をみる。窓の外の空をみつめる癖を、どのくらいの人が
知っているのか私にはわからない。ただひとつわかるのは、彼女──エイラ自身は、おそらく自分のその癖に気が
ついていないということだった。ふたりきりの部屋の中で、ふと足を運んだミーティングルームで、はたまた
ブリーフィングルームで。彼女はふっとひとりきりの世界にたびだつ。いつもあれやこれ、と世話を焼く相手である
ところの私ですら意識の外に追いやって、ただひたすら青い空のむこう、白い雲のかなたをみつめているのだ。それ
は数ヶ月前にここロマーニャで第五〇一統合戦闘航空団が再結成されるよりも以前、いってしまえば私と彼女が出会
ったブリタニアにいたころからの癖なのだった。
窓から差し込む陽光に、エイラの髪がきらきらと輝いている。柔らかな金色を内包した銀色の彼女の髪に、私は
やさしい三日月の光を想いながらいつも黙って彼女を見ている。エイラ自ら「私はこの部屋がいい」と言い張って
選んだ私と彼女の部屋は、とびきり大きな窓を持つ明るい部屋だ。
ねえ、エイラ。あなたは今、何を見ているの?
こちらからは横顔しか見えないその瞳に映っているものがいったいなんであるのか、私も知りたいのだ。知って
どうなる、といわれたらそれまでだけれど、体だけではなくて心でさえも、彼女に寄り添ってみたい。彼女の気持ち
の奥底に流れるきれいな流れを汲み取って口にして、そうして彼女の望むものを私も差し出してみたいのだ。与えて
もらうだけではなくて私も彼女に何か意味あるものを手渡したい。それは今に始まったことではなく、ずっとずっと
むかしからのささやかな願いで。もう何年もそう願い続けているのに、私はいまだに、彼女の気持ちをつかむことが
できない。やさしく抱きしめてなでてやりたいほどの愛しさが、この胸にあふれているというのに。
あ、と。不意にエイラが声を上げた。ああ、きっとよくないことが起こるんだわ、とその声音を聞いて私は思う。
次の瞬間、ふっと風が部屋の中を吹き抜けていた。そしてみるみるうちに、青々としていた空は黒い雲に覆われて
いく。ふぅ、と息をついて彼女が立ち上がって窓を閉めているあいだに彼女の大好きな青い空は、あれよあれよと
いう間に失われていて。閉め終えた途端にぽつぽつと窓をたたく雨粒の音すら聞こえてきた。窓に手をかけたまま
立ち尽くしているばかりのエイラの後姿があまりにも悲しげに見えて、私まで悲しくなってきてしまう。こらえたい
のに、目の奥から熱いものがこみ上げるのだ。
「…サーニャ?」
こらえなくちゃ。そう思ったのは、ほら。そんな囁きが聞こえたころにはエイラは私の傍らに戻ってきていて、
そうしていっそう悲しげな瞳で私を見やるからだった。私しか映していない、エイラの瞳。泣いてるのか、
大丈夫か。降りかかる言葉はいつもどおり抑揚のないものだけれど、私にはもう、その言葉尻に心配の色がありあり
と見える。このまま私だけをずっとずっと映していてくれれば何一つ怖くないのに。そう、心の片隅で考えてしまう
私はなんておろかなことだろう。私でないものを見つめて物思いにふけるエイラを、私はいつもそうして縛りつけて、
ほだしてしまうのだ。私の幸せを一心に願う彼女の弱さにも似た優しさに甘えて、きっと私はエイラの未来を阻んで
いる。
ねえ、エイラ。本当は私、知っているのよ。あなたが見ているものが、なんなのか。
ロマーニャからはるか北、ヨーロッパの北の端。ずっとずっと遠くにある彼女のふるさと。彼女が思いをはせて
いるのは、故郷の青い空と、白い雪景色なのであると、本当は、ずうっとまえから気づいているのだった。本当に
わからないのは、その先だった。彼女は故郷が懐かしい、などとは言わない。ましてや帰りたい、だなんて私に
対して漏らしたりしない。
(世話になった先輩が、もうすぐ、ウィッチやめるんだって)
あの人も、もう二十歳なんだな。
あるとき、やっぱり空を見つめながら、エイラがもらしたその一言が頭から離れない。それは私に対して言った
言葉だったのか、それとも胸に募った気持ちを誰に対してではなく吐き出したかっただけなのかは、私にはわから
なくて。それでもたった一つ確かだと思ったのは、それはエイラが空を眺めながら考えていることの切れ端であると
いうこと。ウィッチとして出会い、知り合い、親交を深めてきた私とエイラの、その先に横たわるウィッチとしての
「終わり」。彼女はもしかしてそんなことを考えているのかもしれなかった。彼女は自分のことを多くは語らない。
けれど、ぽつりともらすその言葉ひとつひとつから、彼女がどれだけふるさとを愛しているかを私は聞いてとる。
大切な仲間、かけがえのない人、守りたい景色。彼女が思いをはせるその場所が、どれだけエイラにとって大切な
ものであるのか、私はようく知っているのだ。
ねえ、エイラ。あなたは本当は、どうしたいの?
エイラと喧嘩をしたあの夜、ハルトマン中尉に問いかけられたその言葉を心の中でエイラに問う。私はそれが
わからないから、いつもいつも戸惑っていしまう。本当に、私を選んでいいの?本当はもっともっと大事なものが、
あなたにはあるんじゃないの?ガリアを開放したあとの列車で、ロマーニャに向かう道すがら、そしてあの、空より
ずっとずっと高い場所で。私は本当は、彼女にきちんと問いかけたかったのだ。それだのに、口から出てきたのは
私のわがままだけ。お父様とお母様に会いたい。ひとりはいや。戦争はこわい。そんな、私の勝手な希望ばかりが
こもった、わがままな言葉だけだった。
(いいよ、サーニャと一緒なら、私はどこへだっていける)
彼女のその答えを聞いた瞬間、喜びと同時にどれだけの後悔が私を襲ったことだろう。ウラルの山々から目を
動かせば、そこには彼女の懐かしい、大切な、スオムスだってあるはずだったのに。エイラは私の言葉ひとつで、
私と生きるといったのだ。彼女の希望ひとつすらまともに汲み取ってやれない私を、エイラは「守る」と叫んで
くれた。それはとてもとてもうれしいことだけれど、同時にとてもとても悲しいことでもあった。私の幸せが自分の
幸せだ、とエイラが言うのなら、それは私だって同じなのだ。エイラが幸せだと思うのなら、たとえそれが離れ離れ
になることだって、私にとっては幸せなことなのだ。それでも耐え切れなければ私こそがエイラのもとへ飛んでいき
たいくらいで。
ずっとずっと、そう願い続けているのにそのために必要な言葉はいっこうに音となってはくれない。エイラが「
好きだ」といってくれるピアノが奏でるのは音符の連なりばかりで、私の気持ちを言葉にして伝えてはくれないのだ。
まだ14歳の私には見えない未来を、16歳の彼女は見つめはじめているのだろう。それはエイラの能力が及ば
ないほど遠くの未来だけれど、成長した彼女は考えてやまないのだろう。もしかしたら考えても考えても答えが
見つからないから、目の前にいるこの弱い私に手を差し伸べてしまうのかもしれない。だとしたら、それはとても
とても悲しいことだ。だってそれはきっと、エイラの本当の幸せなんかじゃないからだ。
先ほど青空を覆った雨雲はどうやら通り雨だったようで、雨音はいつの間にか消え去って、閉めたままの窓から
はまた、明るい日差しが差し込んできていた。エイラの髪がまた、その陽光にきらきらと輝いている。
けれどエイラは再び窓を開いて物思いにふけることをしないのだった。涙の止まらない私に懸命に優しい言葉を
かけたまま、思いをはせていた青空に背を向けている。あの喧嘩以来、彼女はいっそう私の涙に敏感になった。あの
時涙を流したこと自体が原因なのか、それとももっと別の理由が彼女にあるのかは、私にはわからない。もしかし
たらエイラ自身、よくわかっていないのかもしれない。
ねえ、エイラ。私はあなたが、いちばんすきなの。だからあなたの幸せを、一番に願いたい。
愛しているの。世界で一番、あなたのことを。
その言葉は、その言葉だけは。いつか彼女が、そして私が、戦うことをやめたときまで口にしないでおこうと
心に誓うのだった。
おわり