憧れの人
穏やかな潮風と波音の和声が耳に心地よいある晴れた日の昼下がり。
時折反響する海鳥の鳴声に目を向けることもなく、少女は水平線の彼方を見つめていた。
どこまでも続くアドリア海の蒼と碧。少女がその身に纏う衣服もまた青く、風にそよぐ金髪は水面を反射する太陽光の如く輝いた。
少女は未だ帰らぬ旅人を待ち焦がれるような色をその瞳に宿し、遠くを、ずっと遠くを見つめ続ける。
憧憬と不安と祈りと。様々な感情が綯い交ぜになった瞳は、心なしか揺れていた。
いつからだろう。彼女がこんな風に海岸に立つようになったのは。
出会った日からずっと追い続けてきた憧れの人が、何処か自分の知らない遠くへ行ってしまうような、そんな気がしてならないからだ。
焦る気持ち。
まだまだ足元にも及ばないのに。
もっともっと教えて欲しいことがたくさんあるのに。
少女はどうしても後ろ向きになってしまう心を換気するように、一つ大きく深呼吸をした。
(私が弱気になるなんて、あの人に顔向けできませんわ……)
と、沈んでいた少女の表情に明かりが灯った。
空気の振動が伝わってくる。
空の彼方に幾つかの人影が見える。
隠し切れない嬉しさの熱に頬を赤らめ、迫り来る影を見つめながら、少女はホッと息を吐き出した。
この日の出撃も無事に全員が帰投し、基地内は再び束の間の静寂に包まれた。
水平線の向こう側に陽が沈んでゆく。
茜色に染まった滑走路。
その真ん中で一人訓練を続けている人物がいる。
坂本少佐だ。
実戦から帰ってきて間もないというのにその姿から疲労は伺えない。
そしていつものようにその様子を物陰から見つめる人物が一人。
「ペリーヌ、こんなところにいたのか」
声をかけられたペリーヌは一瞬ギクリとして振り返り、そしてその意外な相手に少しだけ驚きを見せた。
「バルクホルン大尉……。あの、私に何か?」
「あぁ、宮藤とリーネがお前を探していたぞ。それを伝えようと思ってな」
「はぁ、そうでしたの……」
そう言ってペリーヌは再び坂本の方へと視線を向ける。
「ん? どうした? あぁ、坂本少佐か。全く、あの人は本当にすごい人だ。今日は実戦があったというのにまだ訓練を続けるとは。並大抵の魔女が真似できることではない」
カールスラントのトップエースでさえ驚嘆を禁じ得ない程の魔女。彼女の能力は間違いなく世界でも数本の指に入るであろう。
だが、どんな魔女にも限界はある。
「バルクホルン大尉は、坂本少佐のことをどう思われますか?」
ペリーヌは意を決してバルクホルンにその胸の内を暴露した。
「どうって。今言った通りだが」
「違います。坂本少佐が素晴らしい魔女であることは私だって百も承知ですわ。そうではなくて。坂本少佐の……魔女としての寿命のこと、です……」
夕陽がほとんど姿を隠し、サーチライトの光と夜の闇が滑走路を支配する。
真剣な眼差しのペリーヌに応えるように、バルクホルンも忌憚のない意見を述べた。
「魔女である限り、いずれは上がりを迎えるものだ。どれだけ肉体の鍛錬を積もうが魔力の問題はどうにもならない。それは魔女である我々が一番よく分かっていることだろう。坂本少佐もまだまだ飛べるとは言っているが、正直そう長く戦場に居られるとは、思えない」
そう言い切ったバルクホルンに覚悟はしていたとはいえペリーヌは動揺を隠せない。
「私、怖いんです。もしも、坂本少佐がもう飛べなくなった時に、私はそれでも飛び続けることが出来るのか」
ペリーヌにとって師匠であり、目標であり、憧憬の的である坂本。
いつもその背中を追い続けてきた。そしてこれからも追い続けてゆくのだろう。
だから……、
「まだまだ少佐には手も届かないのに。少佐みたいにはなれていないのに。それなのに少佐がいなくなってしまったら、私はどうしたら……」
だから、抑え切れない焦燥にペリーヌの心は圧し潰されそうになっていた。
暗闇の中、ペリーヌの瞳の端に一粒の涙が煌いたように見えた。
少女の悲痛な告白を静かに見つめていたバルクホルンは優しく声をかける。
「そうだな……。時にペリーヌ、お前はよく宮藤やリーネの面倒を見ているようだが、最近はどんな調子だ?」
「え、えぇ……。まぁ、彼女たちも随分と力が向上してきましたわ」
突然の話題転換に目を白黒させるペリーヌだがバルクホルンは構わずに続けた。
「そうか。それは宮藤もリーネも、ペリーヌも、坂本少佐の教えを実践できている証拠ではないか。そして今、二人を導いているのはお前だ、ペリーヌ。先刻お前は少佐みたいにはなれていないと言ったが、そんなことはないぞ。お前はいつでも誰よりも少佐の近くを飛んでいたんだ。あの坂本少佐の教え子が、一人で飛べない程度なわけがなかろう」
迷いを断ち切る力強い言葉の閃光が、ペリーヌの心に走り抜けた。
「私も上がりを迎えた先輩魔女たちを多く見てきた。飛び続けたいという願いも。だがその願いは消え去るわけじゃない。坂本少佐が飛び続けたいと願った空は、今度はお前が飛べばいい。それだけのことだ。それともお前は、そんな大事なポジションを他の誰かに譲るつもりか?」
「そ、そんなことは……。少佐の後はこの私こそが!」
元気を取り戻したペリーヌにバルクホルンも笑顔を見せる。
「だったら行ってこい。今はまだ少佐の隣を飛べるんだ。隠れてコソコソ見てるだけじゃつまらんだろ」
ドン、とバルクホルンはペリーヌの背中を押す。照れを隠しながらも笑顔で応えたペリーヌは、もう一度振り向いてバルクホルンに礼を告げ少佐の下へと走っていった。
「全く、世話の焼ける奴だ。だが……」
きっとペリーヌはもっと強くなる。そして次の世代の魔女たちを導いてくれるに違いない。
「あ、そう言えば。宮藤たちがペリーヌを探しているんだったか……」
当初の目的を思い出し、苦笑交じりにバルクホルンは空を見上げる。
無数の星が煌く中を一筋の流星が稲妻の如く駆け抜けていった。
fin...