Key To My Heart
ブリタニアはロンドン、その街角。
小さな化粧品店の店先で一人の少女が立っていた。色素の薄い肌に、肩で揃えた銀の髪。
サーニャ・V・リトヴャク。
軍属であるはずの彼女だが、この日の装いは軍服ではなく、私服のブラウス姿だ。ハンドバッグを片手に、どこか落ち着かない様子でロンドン名物である大時計を見上げる。
午後三時過ぎ。
まだ時間的余裕はあったが、かといって余りのんびりもしていられない。今日は大事な日なのだ。万が一にも遅刻はできない。
「ごめんサーニャ! お待たせ!」
慌てた調子で店から飛び出してきたのは、ごく淡い亜麻色の長髪を翻す少女――エイラ・イルマタル・ユーティライネンだ。こちらも本来は軍属だが、今日は私服のジャケット姿。手には小さな紙袋を持っている。
「もう、エイラったら。真剣に選んでくれるのは嬉しいけど、時間をかけ過ぎよ」
「ごめんごめん。でも、妥協は出来ないしさ」
言いながら、紙袋を開き、改めて今買ってきたものを確認する。中身はリップに、マニキュア、その他化粧品。どれもエイラが吟味に吟味を重ねて選んだものだ。袋を覗き込んだサーニャも、思わず感嘆の吐息を漏らす。見とれるほど可愛らしい色合いが袋の中にある。
二人並んで歩みだす。
ロンドンはガリア解放以来で、なんだか少し懐かしい。ゆっくり観光などしていきたい気持ちがあるのはお互いさまだったが、今日はどうにもそうはいかない。
「なんてったって、今日は結婚式だろ? 中途半端じゃなくて、きちっと決めていかないと」
「それはそうだけど」
「楽しみだな、サーニャのドレス姿」
うきうきと言いながら、スキップしかねない調子のエイラである。
そう、今日は結婚式だ。人生一度の大舞台である。その身支度に油断などあってはならないのだから、衣装も化粧も拘りぬくというのがエイラの言い分で、化粧品店の前に立ち寄った貸衣装屋でもサーニャ以上の真剣さでサーニャの着るべきドレスを選び、そして時間を費やしていた。
社交的なノウハウに乏しいサーニャとしては、エイラが色々と選んでくれるのは助かるし、似合う服やお化粧を見繕ってくれるのは素直に嬉しい。しかしそれで遅刻してしまっては元も子もないので、待っている間ははらはらし通しだった事も本当だ。
「でも、エイラ。別にわたしの結婚式ってわけじゃないのよ?」
「だからこそさ。招待客として呼ばれた以上、それ相応に気合を入れるのが礼儀だろ?」
「そんなものかしら……」
「そんなものだって」
そう。
今日はサーニャの――恩師の、娘さんの結婚式なのだ。
Key To My Heart
買い物前にチェックインしておいたホテルの一室に入ると、貸衣装屋で選んだドレスが先に運び込まれていた。イブニングドレスというやつで、つまり礼服である。
軍人であるエイラとサーニャの正装は基本的に軍服で、なんなら冠婚葬祭専用の礼装もあるにはある。が、今日結婚式を挙げる関係者の多くは、サーニャがかつて留学していたオストマルクのウィーンから疎開して、ここロンドンに来ているという経緯がある。戦争を想起させる軍装ではさすがにデリカシーに欠けるだろう、というのが二人の共通見解で、現地で貸衣装を見繕うことになった、というわけだ。
部屋の掛け時計を見やれば、午後四時くらい。式は六時からだから、着替えやお化粧をする時間を見込んでも、十分間に合う。そのことにエイラは密かな満足を覚えた。なんのかんのと急かされつつも、きちんと段取りくらいは考えているのである。抜かりはない。
まぁ、それを口に出したりはしないが。
「でも急だよな。招待状が着いた三日後にはもう式だってんだから」
「仕方ないわ。丁度、わたし達が居場所を転々としてた頃に出されたみたいだから」
「まぁなー。逆によくペテルブルグに到着したとさえ思うよ」
ガリア解放後、二人はサーニャの両親の手がかりを求め、オラーシャへの進入を試みた――が、ネウロイの占領下であるオラーシャ中心部に渡るのは容易ではなく、仕方なく国境付近の502JFWの本拠地、ペテルブルグ基地へと引き返すことになってしまった。居候として他の隊員の手伝いなどをしながら転属の辞令を待っていたところ、今回の結婚式の招待状が届いた、というわけである。
そこまではいいのだが、問題は本来501がロマーニャに基地を構えていた頃に届くはずの招待状が、501の解散によって宛先を見失い、ほとんど式の直前になってようやく到着したというところだ。
慌てて休暇の申請を出したのが三日前。移動手段の確保に奔走し、なんとかペテルブルグとブリタニア間の空輸便を捕まえ、無理を言って同乗させてもらい、現地入りしたのが昨日の深夜。ついでに基地に戻るのは明日の早朝と、かなりタイトなスケジュールだ。
「ていうか今更だけどサーニャ、私なんか一緒に来て良かったのか? 招待されたのはサーニャなんだし、別にサーニャ一人でも……」
「……迷惑だった?」
「いや! 全然そんな事はないけど!」
「招待状には、エスコート役として一人まで同伴しても大丈夫って書いてあったから。やっぱり、エイラに一緒に来てもらった方が安心できるし」
「へ、へぇー。ま、まぁそういう事なら構わないんだけどさ」
安心できる、というサーニャの言葉で蕩けそうなくらい幸福な気持ちになりつつも、顔には出そうとしないエイラである。まぁ実際には表情に大分滲み出てはいたのだが、エイラはそれに気付かないし、サーニャにはあえてそこを指摘しない優しさがあった。いつものことだ。
「とりあえず、そろそろ着替え始めないとな。サーニャ、着方は大丈夫か?」
「多分。こういう本格的なイブニングドレスは初めてだけど、小さい頃、演奏会で着ていたドレスと基本は同じだと思うから」
「じゃあメイクの前に先に着ちゃった方が良いな。マニキュアは塗ると、乾くまであんまり動いたりしない方がいいし」
「わかったわ」
その返答とともにサーニャがブラウスのボタンに手をかけ、気付いたエイラは慌ててそこから目を逸らした。
――いや、別に目を逸らす必要はあるのか私は?
頬の紅潮を自覚しながらそんな疑問が生じた。冷静に考えれば別にこれから全部脱ぐわけではないし、というかサウナなどで裸を見たことだってあるが、なんだか直視していてはいけない衝動に駆られてしまっていた。しかし、同性の着替えに対して変に意識しているようなこの態度はサーニャに不審がられないだろうか。
――普段ならこんな風に意識はしてないハズなんだけどな……。
少なくとも、最近は。
やはりこう、普段見慣れない私服姿のサーニャと、ホテルの一室に二人きりでいるというこの状況に対して、少なからず心のどこかが昂揚しているのかも知れない、と自己分析。
視界の外から聞こえてくる衣擦れの音にひどく悩ましい気持ちになりながらも、待つ事数分。
「……エイラ、どう、かしら」
その言葉で着替えの終わったらしい事を悟り、エイラが視線をサーニャへと戻した。
――……。
言葉が出なかった。
イブニングドレスは深い藍と漆黒のグラデーションを描き、それはまるで夜の帳のようで、色素の薄いサーニャの肌と髪によく似合っていた。ドレス自体は決して華美ではなく、むしろシンプルでさえあるが、それが均整のとれた身体をかえって際立たせている。ともすれば幼い子供が、背伸びをして大人の真似をしているかのように映りかねないのに、どういうわけか、少女っぽい可憐さと大人の色艶とが、全く違和感無く同時に存在してそこにあるのだった。
きっと、いや、間違いなく似合うという自負をもってエイラが選んだドレスである。
が、これは想像以上だ。
「……綺麗だ」
それしか言えなかった。それ以外の言葉で表現できる気がしなかった。何か他の形容詞を下手に用いれば、目の前にある美しさを一気に陳腐にしてしまう気がした。
サーニャの頬に赤みが差し、それがまたエイラの心を掻き立てんばかりに愛らしかった。
「その、あまり見ないで……は、恥ずかしいわ」
「ご、ごめん。でも、うん、綺麗だ……すごく綺麗だ」
「あ、ありがとう」
照れ照れと身をよじらせるサーニャを、今後は逆に見詰め続ける。
なんならこのまま一晩中そうしていたいような気持ちにすらなりかけたが、さすがにそうは行かないと我に帰り、エイラが化粧品の紙袋を手に取る。着替えが済んだら次はお化粧で、さらに髪のセットもしなくてはならない。
「……よし。じゃあサーニャ、そこの椅子に座って」
部屋の中に据えつけられたテーブルの、横の椅子へとサーニャを促し、エイラはテーブルを挟んだ対面に着席する。紙袋の中の品を広げれば、中身はリップにチーク、マニキュアなどだ。数ある化粧品の中でも、本当に最低限だけ揃えたといった具合である。
「えーと、まずチークからがいいかな」
「いまさらだけどエイラ、お化粧、出来るのね」
「意外か?」
「少し」
「まぁ私も自分でするって機会はあんま無いんだけどさ。子供の頃によく姉ちゃんに着せ替え人形にされたことがあって、その時ついでに覚えちゃったっていうか……」
――あの時の写真、まだ残ってんのかなぁ。
出来れば原因不明の小火かなにかで焼失していて欲しいというのがエイラの本音だが、あの姉のことなので、きっと懇切丁寧に保管されているのだろうとも思う。願わくば誰の目にも触れないままであって欲しいものだが。
「さって、始めようか」
「ええ。お願い、エイラ」
チークは淡い色合いで、白いサーニャの肌にほんの少しだけ血色を足すようなものだ。ファンデーションなどの下地はあえて使わない……というか、必要がないだろうと判断した。サーニャの肌はエイラの贔屓目で見てもきめ細かいし、十分に瑞々しい。十代の特権だ。
サーニャの頬にチークを乗せる。薄く、限りなく自然に見えるように。
その手順の中でエイラは新たな発見をしていた。誰かの顔に化粧を施すというのは、緊張もあるのだが、それ以上に楽しいということを。なるほど姉があれほど夢中になるわけだ。なんというか、サーニャをある意味自分色に染めているような、そんな感覚だった。
チークの次はリップを手に取った。これもチークと同じで、少しだけ紅を足す色合いである。
サーニャの唇に、リップの先端で触れる。幼い子供みたいに小さく、柔らかそうな唇だとエイラは思った。リップ越しに触れるエイラの指に、その弾力が伝わってくる。
――うわー。
正直、少しいけない気分になってきた。
いやしかし、この唇を目の前にして、平常心が保てる人間がこの世にいるのだろうか? 少なくとも自分はそうではない。平常心という言葉の意味さえ解らなくなりそうなくらいだ。
サーニャはチークを乗せ始めたときからずっと目を閉じている。あるいは今ここでその唇に、リップ以外のものが触れたところで、それが何なのかサーニャは気付かないのではないか? そう、例えば。
――キスしても、解らなかったり……。
しないだろうか。
と、一瞬だけ想像し、直後に激しい自己嫌悪が襲ってくる。
何を考えているのだ自分は。私を信じて任せてくれているサーニャの心に付け入るような真似は、想像だってしてはいけないはずではないのか、と。
酷い不義理をしてしまった気持ちになり、リップを持つ手が止まる。
「……エイラ?」
順調に動いていたはずのエイラの手が停止した事を不思議に思ったのか、サーニャが思わず問いの声を漏らす。動く唇から慌ててリップを離し、エイラがすかさず取り繕う。
「いや、何でもないよ。少し頭がかゆくってさ」
「……?」
「じゃ、残りを一気に塗っちゃうぞ」
今度こそリップを完璧に塗り終わる。エイラの気分は自業自得で何となく晴れないままだが、とりあえずこれで顔のメイクは完成だ。
とは言ってもやったことと言えばチークとリップだけなので、大した事はしていない感じもあるが、あまり派手にしてしまってもどうかと言うエイラの判断がある。式において主役はあくまで新郎新婦であり、サーニャはあくまでそのゲストなのだから、主役より派手なドレスや化粧はいかにもまずい。幸いな事にサーニャはそのままでも十二分に愛らしいので、そこまで念入りに化粧をする必要はないだろうとエイラは思うのだった。
「次、マニキュアだな」
マニキュアの色はごく淡い薄桃色――色の白いサーニャの爪に塗るのでなければ人目に付かないような、可愛らしくも慎ましやかな色合いだ。これはエイラが今回特に拘ったもので、この色一つ選ぶのに、小一時間はかかってしまった。しかし、それだけに自信はある。きっとよく似合うだろう。
「それじゃ、指を」
エイラの差し伸べた掌の上に、サーニャの手指が乗せられた。細い指に、小さな爪。ほんの少し力を加えるだけで折れてしまいそうなほど華奢な指だ。思えばサーニャと手を繋ぐ事は多々あるが、手を凝視する機会と言うのはなかなか無いもので、改めて見ると、なんだか新鮮な印象だ。
まずアルコールを含ませた布で、爪の油分を落とす。本当は甘皮を処理したり爪も磨いたりした方が最終的な見栄えもいいのだが、そこまで気にすると時間をさらに要する事になるので今回は無しだ。
しっかり拭いたら、マニキュアの小瓶を手に取り――とはいかない。まずベースコートという透明な色のマニキュアを塗る必要があるのだ。これを下地にしないと、爪の微妙な凹凸のために最終的な色にムラが出たり、爪を傷めたりするので、必需品である。
ベースコートの瓶のフタを片手だけで器用に外し、フタに付いている筆を、サーニャの爪に、
「んっ」
「どうしたサーニャ!?」
予想だにしなかった突然のサーニャの艶めいた吐息でエイラの心拍数が急上昇した。激しい鼓動がそのまま手の震えとなり、危うく筆がサーニャの爪からはみ出る寸前だ。
「ご、ごめんなさい。何だか、くすぐったくて」
「ああ……マニキュアって塗る時、結構独特の感触あるからな……」
そういえば昔、姉にマニキュアを施された時は、やけに指先がもどかしかった記憶がある。ただ声を上げるほどでは無かった気がするのだが……個人差というところか。
「じゃ、じゃあ、続けても平気か?」
「大丈夫、だと思う」
気を取り直して。
筆をサーニャの爪に当て、満遍なく、かつ爪からはみ出さぬよう慎重に塗ってゆく。ここをしくじると後々色を乗せた時にも影響が出るので最もミスの許されない部分だ。なのでエイラは息を吹きかけてしまわないように呼吸を抑え、一筆一筆に細心の注意を欠かさない。
が、
「ん、ふ。……っん、ぅ……んん」
サーニャの、艶かしい吐息がもう気になって気になって仕方が無いエイラだった。
――……うわぁ。
なんだか大変なことになってしまった、とエイラは思う。
正直に言ってしまえば、今回メイクをすることを申し出たことに下心が無かったわけではない。しかし、それはあくまで、化粧を完璧に決めてみせることで「エイラ、ありがとう」という一言を聞ければ、という程度のささやかな幸福を期待していたのであって、今の状況は断じて想定外だ。先程の自己嫌悪さえ吹き飛んでしまうくらいの衝撃的な事態である。
顔に体温が集まるのが自覚できる。きっと今、自分の頬は真っ赤になっているだろうが、幸いな事に筆塗りのためにエイラが俯き加減になっているため、互いの表情は解らなくなっている。なんだかいたたまれない。ただマニキュアを塗っているだけなのに、どうしてこう変な空気になってしまったのか? と疑問を抱く間も、サーニャのほのかに熱い吐息は収まる気配が無い。
手早く終わらせてしまいたい気持ちと、もう少しサーニャの艶声を楽しんでいたい気持ちがせめぎ合うが、現実的な問題としてマニキュアと言うのはとても時間がかかる化粧なのだった。まずこのベースコートを十指全てに施し、一通り乾いてから今度は色を乗せ、さらにそれが乾いたらトップコートで保護をする、という一連の作業全てをしないと意味が無いのである。
乾燥待ちの間はもとより、筆塗りに関しては手順を覚えているだけでしかないエイラでは効率に限界がある。作業の完了にどれほどの時間がかかるかは定かでないが、その間、ずっとサーニャがこの調子であると想像すると、なんだかもう全て投げ出してしまうのが一番いいのではないかとさえ思える及び腰のエイラであった。
しかしこのマニキュアは、結婚式という晴れ舞台に招待客として参じるサーニャのために施しているものなのだ。途中で放り出すのは当然、論外である。
――無だ。心を無にするんだ、エイラ・イルマタル・ユーティライネン……!
自分に言い聞かせる。心を凪に。そうだ、なにかひどくどうでもいいことを想像しよう。今日の夕飯、なに食べようか。ブリタニア料理ってまずいって言うよな……でも、スオムス料理も実は似たようなレベルだからなぁ。ミヤフジの手料理とか食べた後だと改めてそう思わされるなー。とかなんとか。
「んっ」
――ムリだな。
一瞬で動悸が激しくなってきた。
諦めに似た感情がエイラの頭をかえって冷静にしてくれたが、それで心の動揺がどうにかなるわけではない。もうどうにもならないという事を自覚できただけだ。
結局エイラは胸中でくるおしく身悶えしながら、たっぷりと時間をかけて、サーニャの爪にマニキュアを塗り続けるしかないのだ。
やがて、
「…………終わったぁー」
ぷはぁ、と大きく息を吐いてエイラがマニキュアの小瓶をテーブルの上に放り出す。色々な意味で神経を使ったし、猫背で俯いていたから背筋が凝っている感じがした。
これでメイクはお終い。あとは髪をセットすれば、祝いの席に相応しい装いの完成だ。
「お疲れさま、エイラ」
「なんのなんの」
十指に施されたマニキュアの色合いを確かめるように、サーニャが左右の掌をじっと見つめる。エイラの思った通り、薄桃色に塗られた爪は白い指の先端で自己主張し過ぎず、それでいて確かな存在感をもって部屋の照明にきらめいている。
「きれい……ありがとう、エイラ」
「いやぁ、気に入ってもらえたんならなによりだよ」
短時間で色々とありすぎたが、その一言で全部救われる気がした。
そこで、不意に。
「ん? 誰か来た、か?」
部屋の呼び鈴が鳴らされた。
ルームサービスだろうか。しかしエイラは頼んだ覚えはないし、サーニャも何か注文していた様子は無かった。誰かが部屋間違えてるのか? と思う。
しかしサーニャには心当たりがあるようで、不審がる様子も無く椅子から立ってドアの方に向かう。サーニャの声と、事務的な感じの男の人の声がやり取りしているのが聞こえたが、内容はよく聞き取れなかった。
まぁ、いいか。そう結論付けてぐっと伸びをする。どうせ大したことじゃないだろう。
「エイラ、頼んでおいた正装が届いたわ。こっちの方だけ、少し遅れてしまったみたい」
「へ?」
前言撤回。
これは、なにか。
妙な予感がする。
「え、礼服なら今着てるじゃないか?」
「? だから、エイラの正装よ。このドレスを選んでくれてる間に、注文しておいたの」
「ふぇ?」
「エイラも出るのよ、結婚式」
「えぇぇぇえ!?」
思わず椅子を跳ね除けて立ち上がる。どういうことなのかさっぱり理解が追いつかない。
「え、何で? サーニャが呼ばれたんだからサーニャが行くんじゃないのか?」
「エスコート役に一緒に来て欲しいって、言ったと思うけれど」
確かに言われた。
しかしエイラとしては、それは式の直前の身支度まで、もしくは会場への送り迎え、という意味で把握していたのであって、式に参加するなんて事は、ひとつも想像していなかったのだ。
「い、いや、私なんか言っちゃなんだけど、完全に赤の他人だぞ? そんなのが式場の中に入っていいもんなのか?」
「招待状には、そこは別に気にしなくてもいいってあったから、大丈夫だと思う」
「まじか……変わった結婚式だなぁ」
「さぁ、エイラ。これを、着ましょう」
「サ、サーニャ……さん?」
「今度はわたしが、おめかししてあげる」
「…………」
――もう、どうにでもなれ。
エイラは、全てを諦めた。
◆◆◆
ロンドンの街中。日もすっかり暮れて、人通りもまばらな中で、一際賑わう建物があった。小さなコンサートホール。
今日、ここで結婚式が開かれる。
新郎新婦は著名な音楽家の家系の出身で、それを思えばこれ以上相応しい会場もないだろう。
やがてエントランス前の小さなロータリーに、一台のリムジンが滑り込んできた。緩やかに減速し、ぴったり入り口の前に横付けするかたちで、止まる。
道路側のドアが開き、中から現れるのは、一人の少女だ。
凛々しい顔立ち、乱れのない亜麻色の長髪、すらりとした四肢。ただでさえ人目を引くであろう美しい少女がライトグレーのスーツ・ドレスを、それだけで絵になるくらいに完璧に着こなしている様は、例え同性だとしても恋に落ちかねないほどに麗しい。
周囲の注目を集めている事も全く意に介さず、少女はリムジンの反対側に回り、歩道側のドアを開いた。中の人物の手を恭しく取り、優しくリムジンの外へと導く。
もう一人の少女の登場に、道行く人々がまた溜息を零した。
柔らかく波打つ銀の髪を肩で揃えた、可憐な少女だった。深い藍から黒を描くイブニングドレスの上に、白のボレロを羽織る姿はどこか儚げで、纏うドレスの色とは裏腹に、見る者に純白の百合を思わせた。そしてその眼差しには、エスコートを担う長髪の少女に対する深い信頼が一目で解るくらいに表れており、それが不思議な事に、銀髪の少女の魅力を何倍にも高めているのだった。
銀髪の少女が車から道路に降り立つと、エスコート役の少女は重ねていた手をそっと離し、代わりに曲げた腕を差し出した。銀髪の少女は一瞬、その意図を図りかねたようで、困惑の顔を見せるが、すぐに得心したらしい。
腕に、腕を絡める。
自分でそうしたくせに、亜麻色の髪の少女の表情が照れくさそうに緩む。それを見る銀髪の少女が、優しげに目を細めた。
二人並んで、コンサートホールの中に入ってゆく。
◆◆◆
「先生、お久しぶりです」
「お久しぶりね、サーニャさん。来てくれた事に感謝するわ」
「こちらこそ、呼んで頂いてありがとうございます」
入り口の受付を招待状を見せて通過した後、出迎えに来た一人の老婦人と、サーニャが抱擁を交わす。『先生』と呼ばれたこの婦人こそが、どうやらウィーン時代の恩師であり、今回招待状をサーニャに送った人物であるらしい。
エイラは何となく、その老婦人を見やった。多分年齢は、エイラの母親よりも一回り上くらい。彫りの深い顔立ちで、結い上げた髪の色は艶のある灰色。背筋は芯でも通っているみたいに真っ直ぐに伸びており、その立ち姿から、決して衰える事のない気品のようなものが漂っていた。
――先生、かぁ。
確かにその肩書きは、この老婦人にぴたりと当てはまる。
「少し、大きくなったわね」
「身長はほとんど変わっていませんよ、先生」
「背の事ばかりではないわ……何か、素晴らしい経験をしたみたいね。軍隊は大変なばかりのところだと思っていたけれど、これなら大丈夫そう」
「……はい。色々なことが、ありました」
「それを大切にね、サーニャさん。あなたは今、ウィッチとして生きる事で手一杯だろうけど、人生の中で見れば、その期間はほんの一瞬よ。今のあなたが得ているものは、きっとウィッチでなくなった後でも、尊いものになるだろうから」
「はい」
「良い表情をしているわ。あなたにピアノを教えていた頃を思い出すわね」
「ありがとうございます、先生」
「今日は楽しんでいって頂戴、サーニャさん――そちらのお嬢さんも」
「ッは、はい。ありがとうゴザイマス」
急に話を振られたことに少し驚きながら、思わず敬語で返してしまう。
「それではね、また後で」
去り際すらどこか優雅に、婦人がパーティ会場の雑踏の中に消えてゆく。
エイラはふぅ、と大きく息を吐いて、無意識のうちに伸び切っていた背筋を少し解した。決して不快ではないのだが、何とも言いがたい緊張から解放された気分だった。
サーニャの方はと言えば、久方ぶりに恩師と会えた興奮からだろう、肌に少し赤みが差し、表情には明らかな喜色があった。うむ、とエイラは思う。この表情が見れただけで、ここに来た甲斐はあった。最近のサーニャは以前より明らかに社交的になっていて、新しい友人も増えてきているが、やはり懐かしい人物との再会というのは、新たな出会いと同じくらい大切だ。今後のサーニャにとっても、今日の出来事は良い糧になるに違いない。
などと、エイラがお節介な考えをしている事を知ってか知らずか、サーニャが、
「エイラ、わたしたちも会場の方へ行きましょう」
そう促してくる。もちろん拒む道理はエイラには無く、揃って会場の方へと移動した。
今回、式場としてあつらえられたコンサートホールは、大体百人くらいが入れそうな広さがあり、本来ずらりと並べられているのであろう椅子は全て片付けられていた。代わりにサンドイッチなどの軽食が用意されたテーブルがいくつも置かれ、立食パーティの形式を取っている。
その一番奥にはコンサートホールらしく、壇が据えられていて、今は緞帳が下りて中が見えなくなっている。
見渡せば会場内は既に多くの人で賑わっており、壮年の紳士淑女がいるかと思えば、エイラ達よりも年下の子供まで顔ぶれは多種多様だった。この結婚式の主役と、その親類縁者の人望が窺い知れるというところである。
「サーニャ……今あそこにいる蒼いドレスの人、確かレコード何枚も出してるピアニストじゃないか?」
「ええ。あのひとも昔、先生の教え子だったって聞いたことがあるわ。その隣にいる黒い燕尾のひとも先生の知り合いで、確かロンドンの有名な楽団に所属している方のはずよ」
「す、すごい人なんだな、サーニャの先生って」
そして、サーニャもその教え子の一人なのだ。
つまりサーニャもまた、ウィッチにならなければ、この会場にいる名立たる音楽家たちに名を連ねるような歌手か、あるいはピアニストになっていたのではないか?
と。
それはこれまで、エイラの中に無かった考えだった。
ウィッチになってからのサーニャは、よく知っている。
しかし自分は、音学生としてのサーニャを、ほとんど知らない。
もし。
――サーニャが、ウィッチになってなかったら。
その先を考えようとして、エイラはほとんど本能的にそれをシャットアウトした。それがきっと、ひどく、醜い考え方になるのが解っていたからだ。
ぐっと唇を引き結んだ、苦虫を噛み潰したみたいな表情になってしまった事をサーニャに悟られなかったのは幸運だった。苦味に満ちた思考をそっと頭の中からはたき落とし、なんでもないような顔を取り繕う。
会場のきらびやかな空気に中てられたみたいに、色々なものに目移りしているサーニャの隣に、エイラはそっと寄り添う。これでいい、と思えた。
こうしていられるだけでいい、と。
頭を振って気分を強引に切り替えたエイラは、サーニャとともにしばし式場の空気を楽しむことにした。実際、楽しもうと思えば、このホール内は引っくり返した宝石箱のようなもので、あちらにオペラのプリマドンナがいるかと思えば、こちらには新聞に顔の出た事のあるヴァイオリニストが立っているなど、とにかくどこを見ても驚かされるような状況なのだ。
会場内を散策していると、不意に、
「サーニャさん」
と、呼ぶ声。視線をそちらの方に移すと、そこにいるのはサーニャの先生だった。
「先生、どうかされましたか?」
サーニャが応じると、老婦人がその手に持ったものを差し出してくる。一瞬、雑誌か何かに見えたが、それにしては装丁がしっかりしていた。
「実は、あなたに頼みたいことがあるの」
「これは……?」
「楽譜よ。この後、ちょっとした演奏会があるのだけれど、そのピアノを貴女に演奏してもらえないかと思って」
その申し出にサーニャは戸惑ったようで、楽譜を受け取りかけていた手がびくっと震えて、止まった。
「……とても光栄ですけど、先生。わたし、ピアノの演奏にはブランクが……」
「貴女の演奏の腕前が、少し離れていたからと言って容易く衰えるものではない事は私が知っているわ。そう教えたのは私だもの」
「でも」
「勿論、無理にとは言わないわ。これは言うなれば、私の我侭。貴女の演奏を聴きたいだけの老人のお願いだと思って頂戴」
サーニャの手は動かない。中空で、なにか縋るものを探すように、指が虚空を握り締める。
エイラはあえて黙っていた。ここで例えば、エイラが「やってみればいいさ、サーニャ」とでも言えば、それが後押しになってサーニャは楽譜を受け取るだろう。
けれどそれでは、意味が無いと思った。ここはサーニャが、本当に、自分からそうしたいと決意しなければならない場面なのだ。口を出すのは野暮だろうし、なにより。
――今のサーニャなら、私が背中を押す必要も無いさ。
これは自惚れの一種だろうか、と苦笑が浮かびそうになる。
数秒の逡巡があり、果たして。
「……少し、練習の時間を下さい」
「構わないわ。ありがとうね、サーニャさん」
サーニャの手が、楽譜を掴んだ。
「緞帳の向こうに、全て用意してあるわ」
「はい」
「行ってらっしゃい、サーニャ。頑張ってな」
「うん。行ってきます、エイラ」
緊張を顔に滲ませながらもサーニャが微笑む。楽譜を抱えてホール奥の壇上へ向かい、緞帳をくぐってその中に消えた。
さて、自分はどうしたものか、とエイラが天井を仰ぐと、意外なことに、
「少し、お話をよろしいかしら。ミス・ユーティライネン」
先生から声をかけられた。
ん? と疑念が浮かぶ。エイラ、という名前の方はサーニャとの会話の中で聞かれていてもおかしくはないのだが、ユーティライネンという姓をこの人が知っているはずは無いのでは?
「あー、ええと。構いません、けど」
やはり、思わず敬語が出る。上官相手でさえあまり敬語で会話した記憶がないのだが、どういうわけかこの老婦人の前だと、自然とそうなってしまうのだった。
「いきなりでごめんなさいね。でも、どうしても貴女と話したかった事があって」
「私と、ですか」
「ええ。今回サーニャさんにエスコートを一人頼むように伝えたのは、そうすれば貴女をまず連れて来るだろうと思っての事よ。ミス・ユーティライネンの事は、手紙に何度か書いてあったから」
なるほど、実際に会うのは久しぶりだが、手紙のやり取りは何度もあったらしい。その中でエイラのフルネームも登場したのだろう。しかし、サーニャの出した手紙の中で、自分がどんな風に書かれているのかは気になるところだった。
――変な風に書かれてたらどーしよう……。
そんな事は無いと思うのだが、サーニャと話すようになった直後くらいの時期の手紙だと、少し自信が無い。
「どうしても、お礼が言いたかったのよ」
「お礼?」
「サーニャさんの傍に居てくれた事を。そして、あの子を変えてくれた事も。ご両親と離れ離れになった頃のあの子は、自分に閉じ篭りがちで、他人となるべく距離を取ろうとさえしていたわ。でも、手紙のやり取りをしているうちに、そうではなくなっていった」
「…………」
「貴女のおかげなんだろうと思ったわ、ミス・ユーティライネン。手紙の文面から、貴女に対する信頼が伝わってくるほどだったもの。だから会ってみたかったのよ、あの子の特別な人に」
「……特別っていうのは、買い被り過ぎですよ」
思わず、そう返す。
「確かに今、私はサーニャの一番近くにいますけど……でもそれは、きっと本当は、誰でも良かったんだと思います。サーニャの事を変える事が出来たのは私以外にたくさんいて、その中でたまたま、私がその時、その場にいたってだけで」
それは例えば。
エーリカ・ハルトマンだったり。
宮藤芳佳だったり。
あるいは、どこかの街角の、誰かだったり。
エイラ・イルマタル・ユーティライネン以外の誰かでも、最初にサーニャの心に触れることは出来たのだろうと思う。だからもし、自分と出会わなくても、サーニャは――
「あまり自分を卑下するものではないわ、ミス・ユーティライネン」
ぴしゃり、と。エイラの思考を、強い語気で先生が遮った。
思わず息を呑む。エイラには、実はあまり学校に通っていた経験が無い。ローティーンの頃にはもう軍に入っていて、だから『学校の先生』というのがあまり想像できなかった。
けれど、はっきり解る。今、目の前にいるこの人は、間違いなく『先生』だ。それが実感として、初めて感じられた。
「確かに、あの子の傍に居ることが出来たのは、誰でも良かったのかも知れない。けれど、最初にあの子に寄り添ってあげたのは、貴女なのよ。あの子が必要としている時に傍に居る事が出来たのは、唯一、貴女だけなのよ。
それをどうか、誇ってあげて。あの子のためにも」
「……サーニャの、ために」
その言葉は、不思議と、胸の中にすとんと納まる感じがした。完成の見えてこないパズルと格闘しているところに、新たなピースがもたらされたような感覚だった。
「……余計なお節介を言ってしまったかしらね」
「いえ。うまく言えないけれど、なんていうか……少し、すっきりした気がします」
「そう。なら良かったわ」
ところで、と。先生が、ここでこの話はおしまいだ、とばかりにウィンクを一つ。その仕草はとても茶目っ気にあふれていて、不思議なくらい似合っていた。
「貴女はカールスラント語は得意な方かしら」
「得意って言うか、まぁ、聞き取る程度なら。それがなにか?」
「この後の曲はカールスラント語の合唱が入るから。歌の意味が解らないよりは解る方が、聴いていて楽しいものでしょう?」
「そりゃあそうでしょうケド」
「ではね、私はこれで」
お話ができて良かったわ、と言い残し。先生が去ってゆく。
再び一人になり、エイラは先生との会話を反芻した。正直言ってしまえば、先生に言われた事が実感として得られたと言うわけではない。サーニャにとって、特別な誰かであること。そうでありたい、と望みながらも、必ずしも自分がそうである必要は無い、とも思う。この矛盾は、そう簡単に解消できるものではなかった。
しかし。先生の言葉は、ほんの少しだけ、それでも確かにエイラの心に何かを残していた。
考え事にふけってぼんやりしかけていたが、招待客の一人と肩がぶつかりそうになった所で我に帰る。いけない。ここは会場のまんなかだ。立ち尽くしていると迷惑になってしまう。
慌てて会場の隅に移動した、その時。緞帳がするすると上がり始めた。
壇上の上にはすでに楽器とその弾き手が整列していて、ヴァイオリン、チェロ、コントラバスの弦楽器に、ホルンなどの管楽器といった、オーケストラではおそらくお馴染みの面子が並んでいる。皆、服装自体は正装なのだが、いまいち統一感が無く、きっと招待客の中から我こそはという有志が、ああして壇上に上がっているのだろう。
そしてサーニャ。サーニャもまた、壇上に端に据えられたピアノのチェアに控えていた。
会場の誰もが注目する中、舞台袖から一人の老紳士が現れ、壇上手前の中心に置かれた台の上に移動する。指揮者だ。楽譜を整えると、会場の聴衆に対し、一礼。
そして指揮者がタクトを構える。すると、観客のざわめきがすっと消えた。緊張と待望の入り混じる沈黙。身動ぎさえ憚られるような重苦しい静寂。
エイラはサーニャを見た。ピアノの鍵に指を添え、すっと目を細めるその表情は驚くほど真剣なもので、それは夜間哨戒の出撃前に一瞬だけ見せる表情と同じだった。それほどの緊迫がエイラにも伝わる。身震いがした。
指揮者は、沈黙に対し、まるでお構いなしにタクトを切り上げるように振り翳した。
そしてサーニャのピアノが静寂に力強く踏み込む。
指は鍵を叩くというより、鍵盤の上で踊るかのよう。
演奏の始まり、ピアノが旋律を奏で始めるのへ、チェロとコントラバスが割って入る。その旋律を低く唸る音で『否定』する。低弦はまるで「違う、その音ではない」と告げているかのようで、ピアノの音が止まる。
ピアノがもう一度音を生む。今度はもっと軽やかに、より激しく。
だが再び低弦が割って入り、否定の音色をもってそれを中断させてしまった。
負けじとピアノが応える。今度はもっと甘美な音を。低弦はまだそれでもお気に召さない。
ピアノは戸惑うように、自分の音を模索し始めた。二つの旋律は交わらず、対話のような応酬の音が繰り返される。
やがてピアノは見出した。一つのモチーフを。己が歌うべきその意味を。
低弦は迎え入れるかのように肯定の響きを返し、そのモチーフを自らが歌い始めた。ピアノがそこに加わる。いまや壇上にある全ての楽器が、ピアノが探し出したモチーフに唱和している。
エイラは聞き入りながら、肌が総毛立つのを感じていた。なんという豊かな音なのか。音楽の教養の無い自分にさえ解る。対立する旋律を奏でていた二つの音色が、もはや一つとなった事が。音色はただ、共に歌うという歓喜に満ちている。
そして壇上にて控えていた声楽の一人が立ち、よく通るバリトンで朗々と謳い始める。
O Freunde, nicht diese Töne!
Sondern laßt uns angenehmere
anstimmen und freudenvollere.
おお、朋よ! このような音ではない!
我々はもっと快い
歓喜に満ちた歌を謳おうではないか
声は否定の意を歌いつつ、しかし既に存在するモチーフを無かった事にしない。むしろこれは音の重なりに対する羨望なのだと直感できた。共に謳おうと望んでいるのだ。
既に歌う音色達はそれを優しく受け入れる。人の声であれ楽器であれ、この歌の中では平等なのだと言わんばかりに。
Freude, schöner Götterfunken,
Tochter aus Elysium
Wir betreten feuertrunken.
Himmlische, dein Heiligtum!
歓喜よ、煌く神の霊感よ
楽園より来たりし娘よ
我々は焔に酔い痴れながら
天なる貴方の聖所に踏み入ろう!
Deine Zauber binden wieder,
Was die Mode streng geteilt;
Alle Menschen werden Brüder,
Wo dein sanfter Flügel weilt.
汝の魔力は再び結び付ける
時の流れが厳しく切り離したものを
全ての人々は皆同胞となる
貴方の柔らかな翼の休まる場所で
音色に乗せられた祝福と慈愛とが、会場の中を満たしてゆく。
はっきり言ってしまえば、エイラはこの結婚式には特に縁も所縁も無い。だから思い入れもある訳ではなく、ただただサーニャの付き添いとして付いてきただけである。
それでも解る。解ってしまう。今日ここで結ばれる新郎と新婦が、どれだけ周囲から愛されているのかを。奏でられる音の響きがそれを教えてくれる。
Wem der große Wurf gelungen,
Eines Freundes Freund zu sein,
Wer ein holdes Weib errungen,
Mische seinen Jubel ein!
一人の友の朋になるという
大いなる試みに勝ち得た者
優しき乙女を伴侶に得た者は
皆諸共に歓喜の声を上げよ!
Ja, wer auch nur eine Seele
Sein nennt auf dem Erdenrund!
Und wer's nie gekonnt, der stehle
Weinend sich aus diesem Bund!
そうだ、この世界の中でたった一つでも
己のものと呼べる魂があるのなら!
そしてそれが無き者は
涙とともにこの集いから去るがいい!
Freude trinken alle Wesen
An den Brüsten der Natur;
Alle Guten, alle Bösen
Folgen ihrer Rosenspur.
この世の全ての生命は
自然の乳房より歓喜を飲む
善きも悪しきも全ての人は
薔薇の道跡の上を往く
Küsse gab sie uns und Reben,
Einen Freund, geprüft im Tod;
Wollust ward dem Wurm gegeben,
und der Cherub steht vor Gott.
世界は我々に唇づけと葡萄酒を与え
生死の試練を共にする朋友を巡り会わせる
快楽は虫けらにも与えられ
天使は神の御前に立つ
壇上でピアノを弾くサーニャは、どこか苦しげだった。ブランクのあるピアノの演奏で、しかも難度の高い曲を、恩師の娘の晴れ舞台で弾いているのだから当然と言えた。その緊張と重圧のほどは、きっとネウロイとの戦闘で感じるものに引けを取らないだろう。
しかし、それでも。サーニャはそれすらも楽しんでいた。遠目にですら見て取れるくらいに汗を流しながらも、微笑んでいた。自分が奏でているということに歓喜していた。
その姿は、エイラの知らないサーニャだった。ナイトウィッチとしてではない、音楽家の卵としてのサーニャだった。
Froh, wie seine Sonnen fliegen
Durch des Himmels prächt'gen Plan,
Laufet, Brüder, eure Bahn,
Freudig, wie ein Held zum Siegen.
運命の妙なる計らいで
太陽が喜ばしく天を駆け巡るように
同胞よ、己が往くべき道を往け
勇敢なる英雄のように勝利を目指せ
Seid umschlungen, Millionen!
Diesen Kuß der ganzen Welt!
Brüder, über'm Sternenzelt
Muß ein lieber Vater wohnen.
抱き合おう、諸人よ!
この唇づけを全世界に!
同胞よ、この星の輝く天幕の彼方に
愛しき神が居られるに違いない
エイラは頬を伝うものがある事を自覚した。
それが何故流れるのかは、解らなかった。
Ihr stürzt nieder, Millionen?
Ahnest du den Schöpfer, Welt?
Such' ihn über'm Sternenzelt!
Über Sternen muß er wohnen.
諸人よ、跪いたか?
世界よ、創造主を予感するか?
星空の向こうに神を求めよ
星々の彼方にこそ
必ずや神は存せり
◆◆◆
「おかえり、サーニャ」
「エイラ……ただいま」
演奏が終わり、万雷の拍手が響く中、サーニャが壇上から会場の方へ戻ってきた。エイラはハンカチで、サーニャの額を丁寧に拭ってやる。すごい量の汗だ。あまり濃い目に化粧をしなくて正解だった。きっと汗で崩れてひどい事になってしまっていただろう。
「演奏、凄かったよ。なんていうか……心に響くっていうか、とにかく凄かった」
「ありがとう。でも、わたし一人で演奏したわけじゃないわ。みんなのおかげよ」
「だな。でも、私にはやっぱり、サーニャのピアノが一番良く聴こえたよ」
足元のおぼつかないサーニャを壁際の椅子に導き、座らせる。夜間哨戒後だってこれほどまでに消耗しているのは珍しい。演奏の疲労と緊張がどれほどだったのかが良く解る。
近くを歩いていたウェイターに水を頼み、エイラもサーニャの隣の椅子に座る。会場は大盛り上がりで、これでは結婚式と言うよりお祭りみたいだった。
まぁそれも仕方ない。目の前であれだけ凄い演奏が繰り広げられたのだ。気持ちも昂ぶるというものである。サーニャが疲れ切っているので自重しているが、エイラだって飛び上がって喝采を上げたいくらいに感動しているのだ。
氷入りの水のグラスが到着し、サーニャに手渡したところで、会場がさらに一段と盛り上がりはじめた。何があったのか、と壇上に目をやると、タキシードとウェディングドレスを纏った男女が立っているのが見えた――新郎新婦だ。
花嫁は、なるほどあの先生の娘さんなんだな、と思わせるくらいに、どこか気品のようなものを漂わせていて、花婿はどこか朴訥で、誠実そうな男性だった。お似合いの二人だな、と素直に思う。二人とも幸せ一杯という表情をしていて、見ているだけでその幸福が伝わってくる感じがした。
舞台袖から白いひげをたくわえたお爺さんが登場し、新郎新婦の前に立つ。確かあれはコントラバスを演奏していた人の一人だと思うのだが、今は手にロザリオを持っている。どうやら神父さまだったらしい。
「――あなたは健やかなる時も、病める時も、これを敬い、これを助け――」
神父さまの口上が聞こえる。結婚式のクライマックスだ。会場内の人々も自然と口を閉ざし、新郎新婦を見守っている。
ふと視線を舞台袖の方に向けると、そこに先生がいるのが見えた。表情までは解らなかったが、きっと微笑んでいるのではないかとエイラは思う。そしてその隣には、指揮者を担っていた老紳士がいた。ああ、あの人が花嫁のお父さんなんだ、と直感した。
そちらも、表情は見て取れない。だが、なんとなく、涙を浮かべているのではないだろうか。結婚式で泣くのは花嫁の父親というのが相場だし、それに。
――そういう気持ち、ちょっと解る気がするしな……。
愛しいひとが、自分の手を離れて幸せになるということ。それに対する祝福と、少しの切なさ。それを想像した時、思わず隣に座るサーニャの手に自分のそれを重ねていた。手離したくないと切実に思った。サーニャの指が、エイラの手を自然と握り返してくる。その柔らかさと温かさが、エイラの心に沁みた。
やがて花婿と花嫁の、誓いの言葉が響く。それを聞き届けた神父さまが鷹揚に頷き、そして。
「それでは、指輪の交換を!」
結婚式の締めくくりだ。
花婿と花嫁が、互いの愛の証を交換して。
その最後に、キス。
それが、本当に美しくて。
「二人とも、幸せそう……」
サーニャがそう呟きながら、エイラの肩に顔を寄せる。エイラも耳打ちするみたいにサーニャへと寄り添い、囁いた。
「幸せそうじゃなくて、幸せなんだよ。それでこれからもっと、ずっと幸せになるんだ」
「そうね……とても素敵」
「……なぁ、サーニャ」
一つの問いを口にしかけて、そのことに自分自身が戸惑う。これを訊いてしまって良いのか、と。先生の言葉を思い出す。サーニャのために、今、自分がここにいられるのを誇ると言うこと。その確信は、まだ自分の中にはない。だから、何かを確認しなければ前に進めない。
嗚呼。
行こう、と。
そう、決めた。
「サーニャは……やっぱり、音学校に戻りたいか?」
「え?」
「ネウロイなんかいなければ、そもそも軍人になんてならずに済んだし。ピアノだって毎日弾けてたはずじゃないか。今でもあんなに凄い演奏が出来るんだから、きっと軍に入らなければ、有名なピアニストの一人になってたに違いないしさ。だから、サーニャは」
軍に入らない方が、幸せになれたんじゃないか、と。
私と出会わない道に行った方が、良かったのではないか、と。
そんな事を口に出そうとして。
頬に触れる、サーニャの手にそれを止められた。
「……そうね、わたしは音楽とピアノが、好き。ネウロイもなにもなければ、音学校で勉強を続けたかったと思ってる。それは、本当。
でも、ネウロイはいて、だから軍に入って、その間に悲しいこともあったけれど……でも、エイラと出会えたのは、幸せ。それも、本当。
音楽家になりたいわたしも、軍人になったわたしも、どっちも本当だから。わたしは、エイラと出会えて、本当に良かったと思ってるし……それが、今のわたしよ、エイラ」
「……さ、さーにゃぁ……」
「エイラ?」
「わ、私も、色々あったけど……でも、サーニャと出会えて、本当に良かったと思ってるぞ!」
感極まって、思わず、抱きつく。
サーニャが驚いたみたいだけれど、その後にそっと、抱き返してくれる。
ひとさまの結婚式で何をやっているのかと頭の冷静な部分が思わないでもないが、さいわいな事に、みんな花嫁花婿に見とれていて、会場の隅の自分たちを見てはいない。けれどもしかしたら先生は気付いていて、微笑んでいるのかもしれなかった。
このひとが自分にとって、特別であるのと同じくらい。
このひとにとって、特別な誰かでありたい。
心から、そう願った。どうすればいいのか、どうすればそれを確かめられるのかは、まだ良く解らないが、それでも、だ。
祝福の拍手が花嫁たちに注がれるなか、自分たちの周りだけが切り取られたみたいに静かで。
その二人だけの静けさのなかで。
ずっと、抱き合っていたかった。