All is shut down
「おはよーさん」
「おはようございます、エイラさん」
もう二時すぎですけどね、と。リネット・ビショップは心の中で付け加える。
基地の食堂。非番で手持ち無沙汰のリネットが、余った食材でちょっとしたことをしているところに、エイラが入ってきた。
「あれ、リーネひとりか。宮藤はいないのか?」
「芳佳ちゃんは、街に買出し中です。エイラさんこそ、サーニャちゃんは一緒じゃないんですか?」
「サーニャはまだねてる。昨日は夜も風が強くて、哨戒がきつかったみたいだからさ。寝かせといてやりたいんだ」
言いながら、エイラがどこかふらふらとした足取りで着席し、テーブルに頬杖をつく。いかにもけだるげで、目の下に少しくまもある。きっと心配で心配でたまらなくて、サーニャの帰りを寝ずに待っていたのだろう。
――相変わらずだなぁ。
そう思い、ほほえましいような気持ちになる。本当に、このひとは。
「ごめんリーネ、なんか食べるもんあるか? 昨日っからなんも食べてなくてさ」
「お菓子と、お茶くらいでしたら」
「じゃあ、それ頼むよ」
てなぐさみに作っていたちょっとしたものが、早速役に立つようだ。オーブンの中からは、すでにクッキーのいいにおいが漂ってきている。まもなく出来上がるだろう。
ケトルに水を入れて、火にかける。クッキーはもう少しかかるだろうし、お湯が沸くまでは、少し暇な感じだ。
何をするわけでもなく待っていると、甘い香りの中で、かつてあったことが思い起こされた。宮藤芳佳が501に来る前のこと。はっきりとした記憶ではない、あいまいな追憶。
あの頃の自分はただただ卑屈で、自信というものが持てなくて、悩んで、迷っていた。自分の手で故郷を守らなくてはならないというプレッシャーに、圧し潰されそうになってしまっていた。それを出来ない自分が、嫌いで堪らなかった。
“なんか悩んでるなら、相談くらいのってやるよ”
そんなふうに、差し伸べられた手のことを思い出す。ぶっきらぼうな感じを装っているけれど、実際のところ、ひどく優しいその手のことを。
自分はそれを、取ることができなかった。
「なんかいい匂いがする」
「ちょうどクッキーを焼いていたんです。そろそろ出来上がりますよ」
「へぇ。じゃあ、早起きしなくて正解だったな」
エイラが、にっと微笑む。小さい子供のようなその笑顔は、普段の大人びた感じとも、悪戯っぽい感じとも、りりしい感じとも、違う。けれど紛れもなく、それもこのひとの一面だった。一枚めくるたびにまったく違う絵柄が現れるカードのように、めまぐるしく表情を変えて、そのどれもが鮮やかな、そんなひとなのだ。
ケトルがことことと音を立て始める。
さらに、追憶が来る。
“私じゃ、おまえの力には、なれないのかな”
違う。
貴女がそこに居てくれるだけで、良かったのです。でなければ、私はもっと早くに、折れてしまっていたでしょう。
けれども、貴女の手は、取れないのです。
貴女はとても優しいけれど――それだけなのです。
私はそれだけでは、駄目だった。
貴女の手を取ってしまったら、きっと貴女を私と同じ泥沼に引き摺り下ろしてしまうだけだったから。
それとも、これは、私の自惚れだったでしょうか?
「リーネはいろいろ作れるし、美味いしですげーなー。羨ましいよ」
「そんなことないですよ。芳佳ちゃんの方がよっぽどです」
「まぁ宮藤は宮藤ですげーうまいけど、リーネの料理もうまいしな。どっちも好きだけど、やっぱなんだかんだで私はリーネの洋食の方が合うかなー」
「芳佳ちゃんが聞いたらおかず一品抜かれちゃいますよ、そんなこと言ってたら」
「あ、やべ。今の内緒だぞ、リーネ」
お互いに、くすりと笑う。
さぁ、そろそろクッキーに良い焼き色がつく頃だろう。お湯もすっかり沸騰している。そろそろ出来上がりだ。
追憶を頭の片隅に追いやりながら、ふとした事を想像してしまう。
たとえば、501に宮藤芳佳が来ることが無く、エイラの傍らにサーニャ・V・リトヴャクが居ないという、もしもの世界でなら……あるいは、自分は彼女の手を取れただろうか。
いや。
そんな栓の無い想像の中でさえ、無理なのだと。はっきりと解ってしまう。
エイラは優しい。ひどく優しい。優しすぎて、時折、酷い。
優しいだけでは、救いにならない事だって、あるのだ。
エイラの優しさというのは、太陽の光に似ている。誰にでも、平等に降り注がれる温かさ。けれどその平等な温かさに満足できずに、太陽に目を向ければ、眩しさで目がつぶれてしまう。
太陽と向き合える特別なひとは、お月様だけで、それはこの世にたった一人しかいなくて、そのお月様は、絶対に自分ではないのだ。
自分に必要だったのは、太陽の温かさではなくて、誰かの特別な、温もりだった。
それだけの、ことなのだ。
それだけで、終わってしまうお話なのだ。
だから、好きだった、とか。
あるいは、愛していた、とか。
そんな言葉は、このお話には出てこない。かたちになる事さえなかった想いが、幻のように追憶の中にある。けれど、それが無ければ良かったとは思わない。たとえ幻だったとしても。
もう終わってしまったお話に、かつて確かに存在した優しさの。
その残り香だけが。
今でも胸の中にある。
「さぁ、出来ましたよ」
「ああ、さんきゅ、リーネ」
「どういたしまして、エイラさん」
それだけの、お話。