無題
丑三つ時を回った頃。
坂本は赤城の艦内――自室にて夜の鍛錬に励んでいた。
腹筋、スクワット、腕立て伏せ、背筋、大臀筋の強化まで基本的な筋力トレーニングは毎日欠かさず行う。健全な精神は健全な肉体に。強靭な肉体は一朝一夕にして成らずが坂本のモットーである。
「……さん。……坂本さん」
矢庭に雑音の混じった報せが入る。
ゆくりない交信に坂本は意識を集中させた。
「ふぅ――――なんだ宮藤。何かあったか?」
非常事態の外に必要以上の交信は禁じている。部下の身に徒ならぬ事態が発生したかと、一心にインカムへと神経を注いだ。
「いえ……なんでもありません」
「そうか。ならいいが」
芳佳の声音に一応の無事はみてとれたが、心なしかいやに動揺しているようだ。
住み慣れた故郷を離れて久しく、里心がつくのも詮無い。とはいえ元はといえば半ば強引に引き入れた自分にも責任の一端はある。
坂本は落ち着かないときの癖のように中指で眉宇を掻いた。
「もしかして、腹でも減ったのか?」
「いえ、ちがいます」
「遠慮するな。飯なら好きなだけ食わせてやるぞ」
「ちがうんです。ただ…………眠れないだけなんです」
「……そうか。では、私の部屋へ来るか? ……何なら、私の方からお前の部屋へ行ってやってもいい」
思いあぐねた坂本は、自省の念も込めて純粋な気持ちから提案した。
芳佳がなるたけ気後れせぬように、優しい声色で囁きかける。
「それは……。で、でも……ほんとうにいいんですか?」
「構わん。遠慮は無用だ」
思えば宮藤のような青侍を一人にしておくのは気が揉めるものだ。なぜすぐに気がついてやれなかったのか、不甲斐なさすら沸いてくる。
「じゃ、じゃあ、今から行きます!」
さっきまでの消沈ぶりと打って変わり、太陽が笑ったように一変した芳佳の声を聞いて、坂本は胸を撫で下ろす。一方で、芳佳の何ともいえぬいじらしさに面の綻びを隠せずにいた。
はは……これは一杯食わされたかもしれんな。
「坂本さん……開けてください」
程なくして現れた芳佳を迎え入れる。
胡坐をかき相好を崩す坂本をみて、芳佳は戸惑いに眼を逸らした。
すっきりとした部屋の中には、草いきれの如き熱っぽさがたちこめている。それは先ほどまで肉体を苛め抜いていた坂本の汗であり、弛まぬ努力の結晶でもある。さりとて不快感が募るどころか、その充溢に包まれていると、なんだか不思議と懐かしい心地がした。
「どうした? ぼうっとしてないで座ったらどうだ」
坂本はぽんぽんとベッドの上を叩いた。
芳佳は気もそぞろがちにおずおずと歩み寄る。
「さて、生憎だがこの部屋にはお前の退屈を紛らすような面白いものがない。明日の朝も早いんだ、お前はもう寝た方がいい」
「そんな……」
坂本は自ら呼び寄せておいて寝ないというのだ。
芳佳は申し訳なさに恐縮すると同時に、僅かな気勢を削がれたことから言いようの無い虚しさに暮れた。
「さ……坂本さんも、寝なくちゃだめです! そ、その……いっしょに」
……寝ませんか?
芳佳は尻すぼみに言いよどんだ。
もじもじとぎこちなく身体をくねらせる芳佳をみて坂本は破顔一笑する。
「はっはっは!――――宮藤をみていると飽きないな。よし、いっしょに寝てやろう」
但し、今夜だけだぞ――と触れ込んでのことだった。
坂本は背中を向けて横臥する。やや角ばった硬質な肩と引き締まったくびれの醸しだす絶妙な輪郭の結び。その美しさを想うと芳佳は今にも取り縋りたくなるような衝動に駆られる。
この気持ちは……なんだろう。
不思議だ。坂本さんといると訳もなく笑顔がこぼれて、傍にいるだけでこの上ない安心に包まれる。……殊にこの懐かしい香りはなんだろうか。それは同郷である扶桑人にしか感ぜられぬもの。
芳佳はまるで昔日の父の面影を映すような、些か由々しき思考を廻らせていた。
「宮藤…………起きているな」
坂本が気配を察する。研ぎ澄まされた神経は、始終休まることを知らず、一見して人目の届かぬところまで、鋭敏な神経は行き渡るのであった。
「あの……坂本さん」
たとえば芳佳の呼吸音。衣擦れの音。あるいは微細な空気の振動一つとっても、尋常な者にはない微かな震え、ひいては陶酔を思わせる何かが窺える。
「どうした宮藤」
「あ……あの」
芳佳は当惑を隠せない。どうしてよいかわからず、暫く膠着状態が続いた。
「手を繋いでも……いいですか」
ふっ――とこみ上げる微笑を堪えて坂本は応える。
「しょうがないな。ほれ」
横たえた半身を翻し、手をさしのばした。
あったかい……。
芳佳はその手をぎゅっと握って黙考する。
骨ばっていて且つしなやかさを備えた拳は、芳佳のものより一回り大きい。とかく坂本の身体には余分な贅肉というものがない。それでいて女性らしさを残した柔らか味があるものだから、これに惑わされない女はいないと思われる。
おまけにその手は暖かい熱を湛えている。こんな手で触れられてはひとたまりもないだろう。想像して芳佳は思わず背筋をびくつかせた。
しかし、突然に自分の手が意思とかけ離れたように浮ついて、軽薄にも坂本の胸を鷲掴みにしたのである――!!
「――なんのつもりだ!」
坂本は咄嗟に芳佳の腕を掴み返し、組み伏せ、その場の形勢を逆転させた。
坂本の顔を仰ぎ見る。その眦は怜悧な威厳を放ち、鋭い切れ味で射抜く。芳佳はふるふると戦慄の涙を浮かべた。
緊迫した間も、芳佳は首筋に落ちた一筋の髪束を想う。欲の炎を唆すように耳朶のあたりをくすぐるそれを、さぞかし怨んだ。
「坂本さん……抱いてください」
「甘ったれるな。私はそんなことに現を抜かすためにお前をこの船に乗せたわけじゃない」
一方でそんな坂本も、平静を装うつもりでその実、心中穏やかでない。さっきまで幼子にしかみえなかった芳佳が、別のもののように急に愛しくなって、その肌に触れたいとまで思う。坂本はこれを魔が差したと信じて疑わなかった。
「あ……あんまりからかうものではないぞ」
とは言いつつも、一度入れられたスイッチを易々と切ることはできず、坂本はその手を芳佳の頬に伸ばした。
そうして、耳元で甘く囁きかける。
「いいか、これはおしおきだ」
坂本は芳佳の目蓋をゆっくりと閉ざして、優しく接吻を施す。小さな頤をつまんで、長い舌を唇に挿し込む。かち合わぬように絶妙な角度で舌先を這わせ、歯茎の裏、下の裏まで丹念に味わい尽くす。
「ん…………んっ……」
ざらついたそれは、あちこちを隈なく点検するように蠢いた。
静謐の裏側で甘い疼きが膨れ上がる。その夥しさに眼が眩む。キスだけで気が触れそうな思いになる。心の秘芯を貫かれたといっても過言ではない。
その間じゅう、芳佳はうっとりと熱に浮かされたような陶酔に浸っていた。
「今日はここまでだ」
芳佳は薄目をぼんやりと開いて、坂本の尊顔を確かめた。
切れ長の黒瞳、長い睫毛、意志の強い眉。惚れ惚れする。
「しょ……しょうさは、いつもこんな……」
絶技の巧みさに芳佳は呆然としていた。
「お前は知らんでいいことだ」
……正直なところ、坂本はかなり自制心の強いほうだ。その坂本がここまで理性を揺さぶられた相手は久しくいない。
坂本の胸裏には隙が生まれている。一瞬の逡巡に負けてしまったのだ。宮藤芳佳には、軍人と一般人の垣根を越えた感情を抱きつつあることを、このときはまだ自覚していなかった――。
《了》