第48手 やきもち サイン・コサイン・タンジェント
「おー、これから夜間哨戒か。 気をつけろよ。」
「えぇ、行ってきます。 ……そういうあなたはサーニャが心配で見送りですか、エイラさん?」
「誰も心配なんてしてねーヨ!」
顔を赤くして反射的に言い返すその姿が、微笑ましくも妬ましい。
気をつけろよって。 たったそれだけで私の心が浮き立ったのが分かる。
例えそれが、私に向けられた言葉ではないにしても。
「サーニャの事もお前の事も心配してない。 扶桑の言葉で餅は餅屋、だっけ? アマがプロを心配するのは筋違いダロ!」
「……おやすみなさい、エイラさん。」
「エイラでいいって! おやすみハイディ。」
おやすみと言ってるのに、その視線は辺りを彷徨っていて。 ちくちくと、胸が疼く。
「エイラ……行ってくるね。」
「おう! 気をつけてな! おやすみサーニャ!」
どうやら彼女は尋ね人を見つけたみたい。 聞いている方まで胸が暖かくなるような声。 はぁ。 溜息出ちゃうな。
きっと。 これが恋なんだ。
「サーニャです。 初めまして。 よろしくお願いします、シュナウファー大尉。」
「ハイデマリーでいいです。 こちらこそよろしくお願いします、サーニャさん。」
それは501部隊に配属された最初の日。 初見から、私と似ているな、と思った。
同じナイトウィッチ。 同じ引っ込み思案。 そしてきっと……同じ感性。
たった少しの間の握手で、何かが伝わってきたような。 繊細な指先が、穏やかな外面に隠された感受性を思わせる。
先天的に惹かれたのだ。 思わず瞳の影を追うと、彼女もまた、眠そうな瞳で穏やかに私を見据えていた。
なんて勝手な思い込み。 でも。 胸がドキドキするのが止められない。
ともだち。 この人とならきっとなれる。 早くこの人と一緒に哨戒に出かけてみたいな。
人と人が親しくなるには、共同作業に取り組むのが一番だもの。
「じゃあ今夜は腕によりをかけちゃいますね! 楽しみにしててください!」
横から飛び込んできた快活な声で、私は現実に引き戻された。 声の方向に目だけを向ける。
一目で一切の悪意も裏表も無いと分かる最高の笑顔。 ここに来るまでにファイルを見ていたから、すぐに分かった。
この人が501のキーパーソン、宮藤芳佳。 ……うっっ。 ううっ。
私はその笑顔に耐えられなくて顔を背けた。 だ、駄目。 この人は駄目。
いつもそうだ。 これは、強すぎる。 この人の放つ力は、私には強すぎる。 あぁ、私は。 怖いのだ。
夢にまで見た、同年代の友達候補。 でも駄目だ。 宮藤芳佳。 この人は、私には無理だ。
この人は太陽だ。 人との触れあいを経験してこなかった私にとって、この人はあまりに眩しすぎる。
私の目を傷つけた太陽のように。 この人の近くにいると、私の心はコンプレックスという棘によって傷ついていくだろう。
仄暗い部屋に閉じこもっていた自分との、そのあまりの隔たりの深さに、どこまでも沈みこんでしまうだろう。
だから、この人とは向き合いたくない。 なのに、困った。 単なる部隊の仲間として付き合うには、この少女は人懐こすぎた。
情けないと思う。 戦績を評価され、最年少での昇進と誉めそやされるカールスラントのトップエリート。
その精神がここまで脆いだなんて笑い話にもならない。 でも。 恐ろしかった。 宮藤さんの輝きが恐ろしくてたまらなかった。
結局、今でも私は日の光に恐怖を抱いているのだ。 毎日のように夢に見て、うなされてしまうほどに。
「こら宮藤! 新入りをびびらせてんじゃねーヨ! 先輩風吹かせちゃってサ!」
「宮藤先輩こわーい!」
「こわーい!」
「え、え? も、もう、エイラさん、シャーリーさん、ルッキーニちゃん! 変な事言わないで! 私、何もしてませんってば!」
そう。 そんな縮こまっていた時の私の頬を、いきなりむにっと掴んだのも。 そう言えば、彼女だったっけ。
「ま、こっちの新入りさんにも問題があるけどな! やだやだ怖い顔しちゃって。 ほーれほーれ、リラックスリラックス。
ペリーヌみたいになっちまってるゾ! ……いや、ゴメン。 この胸にそんな事言ったら失礼だったナ。」
「ちょ、ちょっとエイラさん、何なさってるの! 相手は大尉ですわよ! それに、私の胸が何ですって!!?」
ひゃわわわ。 たってたって、よっこよっこ、まーるかいて、ちょん。 視界が縦横にガクガクと引っ張られる。
何がなんだか分からない私の前に、突然にょきっと現れた、その顔。
「あのな、大尉。 人と親しくなるには、まず笑顔から! ブサイクになっちゃってもいいからさ。 顔全体で笑うんダヨ!」
ぶふぉー! 取り戻した視界に、あまりに衝撃的な映像。 な、何ですかその顔は! はっ、ひっ。 あっはっは!
……あぁ、きっと普通にしていれば美人なのに。 ファンの人たちにはとても見せられないような物凄い顔。
瞼を大きくひん剥いて鼻を大きく吊り上げて。 後で聞いたんだけど、これ、友達同士の遊びで、睨めっこって言うんだって。
「うっひゃっひゃ! エイラ、その顔やべー! やばすぎる! やっぱりあんた天才だな!」
「ちょっと何それ最高ぉー! あーっはっはっ!」
「も、もうエイラ。 何してるの!」
みんなにばっしばっし叩かれながら、少年のような笑み。 あぁ。 あぁっ。 これ。 この人の笑顔は。
呆ける私にニカッと白い歯を見せて、エイラさんは言ったのだった。
「そうそう。 今あんたがしてるのが、仲間の笑顔って奴だから。 よろしく、ハイディ!」
「月のような笑顔だな……って。」
「月?」
魔力の防壁の隙間から僅かに夜気を感じながら、サーニャに向かって頷く。
もう随分親しくなってきた気がする。 哨戒が同じシフトになる度に、私たちはお互いの事を語り合った。
私たち二人はどこまでも近かった。 人付き合いが下手な部分も。 光に憧れる気持ちも。 そしてきっと……好きになるタイプも。
サーニャは宮藤さんに憧れているみたいだから。 私と同じっぽい、なんて理由は当てはまらないかもしれないれど。
彼女が、エイラさんの事をどう思っているのか。 それが無性に気になった。
「んだよ、二人で閉じこもって! 私にも声かけろよナー!」
サーニャと一緒に居ると、いつも私とサーニャの間に割り込んできた。 だから、嫌でも気付かされた。
彼女はサーニャさんが好きなのだ。 だから、いつでもサーニャさんの隣にいたいのだ。
そして、今はずっとその場所に私がいるものだから。
やきもち。
そんなものを妬いているのだ。 私がサーニャの一番になってしまう事を怖がっているのだ。 私の気持ちも知らずに。
でも、それなのに私とサーニャの仲を引き裂けない。 それは自分のためであって、サーニャのためではないから。
だから、少しでも私と仲良くなって、相対的に私がサーニャに惹かれる度合いを下げようとする。
まるで好きな子に対して素直になれずに、石を投げて気を惹く少年のようないじらしさ。
エイラさんはそういう人だった。 宮藤さんとサーニャが出会った時にも、同じような事をしたらしい。
どこまでも無防備で近付いてくる宮藤さんに対して、エイラさんは適切な距離をとって接してくる。
とても心地よい距離感。 それは、彼女のぞんざいで蓮っ葉な口調とは裏腹の、まるで月の光のような優しさで。
いつしか私の中の憧れは、より具体的で暖かな気持ち……恋、と呼ばれるものに変わっていた。
「……ハイディ、最近よくエイラと一緒にいるね。」
「う、うん……。」
人が聞くとぶっきらぼうな会話かもしれないけれど、これが私とサーニャのふつう。
でも。 うん。 今の言葉は、ふつう、とはちょっと違った気がする。 親しげな会話というものに慣れていないせいだろうか。
僅かばかりのくすぐったさと、ちょっとばかりの……怖じ気。
まさか。 サーニャは怒っているのだろうか。 もっとはっきり言えば。 妬いているのだろうか?
それはエイラさんに対してだろうか。 それとも、ひょっとして、本当にひょっとすると。 私に対してかも、な。
やきもち……?
「おはようハイディ。 ……んーと。」
「サーニャは先に戻りましたよ。 行き違いになったんじゃないですか?」
「だ、誰もサーニャを探してるなんて言ってねーダロ! おかえりって言おうとしただけだっての!」
哨戒を終えて人心地ついているとエイラさんが起きてきた。
強がりを言ったって、彼女とばったり会うのはサーニャと同じシフトの日だけ。
それはサーニャの幸福なわけなのだけど。 友達の幸福は祝うべきなのだけど。 素直に祝うには、私の心は、まだ幼すぎるから。
何も言わずに笑ってる事にした。 私の心がこぼれていかないように。 こぼれて人に見られてしまわないように。
しばらくそうやって見つめていると、エイラさんもニコニコしだして。 ひょいっ。
「うあー、なんだコレ! ちっとも見えやしねージャン!」
「わわわわわ!? わ、私もちっとも見えないですよー!」
唐突にメガネが取られた。 本当にぼんやりとしか見えない裸眼でエイラさんを見ると、勝手に私のメガネをかけてるみたい。
この人いっつもこの調子。 何の前触れもなく、突然変な事をしたがるんだ。
ユーモアの勉強をしてこなかった私は、どう反応していいのかさえ分からないというのに。
「もうー、早く返してください!」
「まぁまぁ。 そんな普段から見えすぎたっていい事ないって! ほら。 部屋まで私が目になってやるからさ! ニヒヒ!」
「え、エイラさんにはこの不安は分からないんですよ! 返してくださいってば!」
「いや。 分かるヨ。 自分を傷つけるくらい見えすぎる、ってのカナ。 分かるんだからさ。 ま、私に任せとけって!」
がしっ。 え。 えええええ! 突然肩を抱かれて、頭の中がパニックになる。 な。 な。 なーーー!?
ど、どういう事なの。 当然、こんな経験あるわけなくて。 薄ぼんやりだけど、とても近い位置に顔があるのが分かる。
そんな一人でワタワタしている私に向けて、エイラさんは言った。
「お前、やっぱりちょっとサーニャに似てるかも。 あのさ。 一人で抱え込むのもいいけどさ。
必要なら、遠慮なく私を頼れよナ。 私じゃなくて他の奴でもいいけど。 仲間使いなんて、荒いくらいで丁度いいんだから。」
……。 何を言ってるのかよく分からなくて。 その一瞬あとで、突然パッと閃いた。
エイラさんは分かったのだ。 私が悩んでいると、その観察力で気付いたのだ。 サーニャとの関係。 エイラさんとの関係。
見えすぎる、だなんて。 分かるはずだ。 彼女の魔法は未来予測。
私の暗視能力が私を傷つけたように。 未来予測の力が彼女を傷つけた事が、きっとあって。
だからこそ私に、手を差し伸べてくれたんだ。
荒涼とした力強さと、満月のような包容力と、三日月のような気紛れと。 あぁ、まさしく。
彼女を月と言わずして何と言うのかしら。 この気持ちを、恋と言わずして。 何て言えばいいのかしら……。
「エイラ……どこ……?」
そんな感じで私がちょっとポーッとしていると、サーニャが現れた。 その言葉を聞けば丸分かり。
サーニャはエイラさんを探していた。 サーニャはエイラさんを求めていた。 サーニャはそれを自覚していない!
持てる者だけに許される愚鈍。 ねぇ。 友達にこんな気持ちを抱いていいのか、よく分からないけれど。
ちょっとだけムッとしてしまう私がいるわ。
「あっ、サーニャ、おかえり!」
この笑顔が私に向けられた事は無い。 羨ましい。 妬ましい。 サーニャはどんなに幸せかしら。
ほら、サーニャも満面の笑顔で応えて……。 って、あれ? ……サーニャ。 何か、ムスッとしてる?
「……あのね、エイラ。 私、今日は自分の部屋で寝るから。 それを、言いに来ただけ。 ……それじゃ。」
「え、ちょ、サーニャ? 待ってっテ! 自分の部屋って……。」
ピタッと足を止めるサーニャ。 う゛っ。 こちらを振り返らなくても、その背中からは拒絶のオーラがありありと滲み出ている。
「……悪いけど、今物凄く眠いから。 何かあるなら明日にして。 ……ハイディ、おやすみ。」
「お、おやすみなさいサーニャ。」
「そ、そうか。 サーニャ、おやす……」
エイラさんがみなまで言い終わらない内に。 サーニャはさっさと歩き去ってしまった。
サーニャと私の仲を邪魔しなかったエイラさんの大人な対応と比べて、サーニャの対応はあまりにも少女なそれで。
今、エイラさんはどんな気持ちだろう。 見ているしかできない私は、まるで我が身の事のように胸が締め付けられて……。
って、あれ? エイラさん。 これ以上無いくらいニコニコしてる!?
「いやー参ったナー。 今のサーニャ。 どうやら私たちが仲良くしてるのを見て怒っちゃったんダナ!
なぁ、これって、ひょっとするまでもなく……やきもち。 だよナ!?」
百年の恋も醒めそうなくらい、緩みきった締まりの無い笑顔。 てっきり傷つくと思っていたのに。
エイラさんは、傷つくどころか冷たくされて喜んでいるようだ。 あぁ、なんだろう。 なんだろうこの気持ち。
私の心なんてまるで気にする風もなく、エイラさんが突然真顔になって私の肩を掴む。
「なぁ。 サーニャはやきもちを妬いているよナ。 これひょっとして、サーニャは私のこと、す……好きだったり、するのカナ?」
でへっと。 完全無欠ののろけ顔でそれを聞かされた私。 あぁ。 うん。
発見って素晴らしい。 この人たちと出会ってから、私は初体験ばかりの毎日だわ。
ぼけっとしていた目を、突然まんまるに見開くエイラさん。 あら。 視えたんですね。
見えすぎたっていい事無いって、本当ですよね。
とりあえず今日分かったこと。 それは。 私は、やきもちを妬くと、思わず手が出るタイプだということ!
おしまい