第43手 浜辺でおいかけっこ
「うひいぃ~~無理ですって、こんな重しつけゴボぁ」
バッシャバッシャと両手を振り回して海面を叩くのは扶桑海軍のアンダースーツを纏う迫水ハルカ。口を開いた拍子に思いっきり海水を飲み込んだらしく半泣きの風体でもがいている。
「つべこべぬかさないっ! 誰でもやる訓練なのコレは。あんた、海軍のくせにどうして受けてないのよ」
波間に浮きつ沈みつする部下へ桟橋から無慈悲な叱咤がかかった。穴拭智子は溺れるにも似た挙動をするハルカを見下ろし、腕組みして仁王立つ。
一見いじめだが、これはウィッチとして在るために必須なのだ。ストライカーをつけて海に落ちた場合を想定した過酷な訓練である。
「がほォっ?! はっ、鼻から思いっきり水がァ…助けてくださぁい智子ちゅうういぃ」
「それだけ話す元気があるならまだ平気ね。あと3分浮いてなさい」
すがってくるハルカをあっさりと突き放し、智子は取り出した懐中時計を確認した。容赦のなさには定評がある彼女のこと、中途半端な泣き落としなど通用しない。
「そっそんな殺生なああぁ?! なんでも言うとおりにするからもう焦らさないでぇって、昨晩何度も懇願してきた従順な智子中尉はいずこへーっ」
「……やっぱり10分追加。これで両手を縛ってみるのもいいわね。あっそうそう、これはあくまで訓練だから♪ 私情が入っているわけじゃないから♪」
救助用のロープを手繰り寄せる智子は楽しげに鼻歌を歌う。一晩中ずっと喘がされたリベンジなのか。
「じょ、冗談ですよね~って、目が本気じゃないですかああぁ?! ま、まずい、このままじゃ本当に…こうなれば…スーハースウゥー、ていっ!」
ザブン、ブクブクブク。ストライカーという重しをつけているため、ハルカは一瞬のうちに沈んでいく。
「なに、もうギブアップ? これからがいいとこだったのに」
チッと舌打ちを落としつつ、智子は手に持ったロープを投げ捨てる。さすがに沈んだハルカを見捨てるわけにもいかず、羽織ったパーカーを脱ぐと美しい肢体を桟橋から躍らせた。
「さあて、面倒だけどへっぽこ海軍を引き上げ…ん? ―――ひゃうっ?!」
艶っぽい裏声を発してしまい、波に揺られる智子は一人赤くなる。慌てて妖しげな感触が走った箇所に手をやると、なんと水着のブラがない。
「な、なななどうしてどこへ?? まさか飛び込んだ勢いで紐が解けたとか―――ああんっ?!」
足の間を何かが撫でていき、またもや一人身をくねらせて悶える。はっとして片手で探ると、やはりというか下穿きもない。
水中とはいえ透明度の高い海である。奥ゆかしさを美徳とする扶桑撫子としてこれは由々しき事態だ。
「ちょ、ちょっと冗談じゃないわよ! 素っ裸で陸に上がれるわけないじゃない!! 水着! はやく水着を」
野暮ったい陸軍水着を敬遠したのを悔やんでも後の祭り。体の両脇を紐で結ぶという大胆なデザインに惹かれた過去を呪う。
泡をくって周囲を探る智子の後ろ3メートルくらいの海面に、ぷかりと丸い頭が浮かびあがった。音もなく出てきたそれは、動揺する獲物を眺めてほくそえむ。
「あなたが落としたのは上の水着ですかァ? それとも下の水着ですかァ?」
「――――っ?! ハ、ハルカ、あんたの仕業だったのっ」
智子はフザケた物言いに振り向き、ハルカの両手にそれぞれ握られたものを見て目を吊り上げた。
「なんのことですぅ~? 私は海中で拾い物をしただけですよ。さあさあ、それよりどっちなんです智子中尉ぃ?」
「どっちもよ、決まってるでしょ! 馬鹿なこと言ってないではやく返しなさいっ!!」
己の優位性を疑わないハルカ、顔を真っ赤にして喚く智子。
「そんな欲張りは通りませ~ん。よって両方没収しま~す」
ハルカはそう言って両手のヒラヒラを頭から被り、顎で紐を結ぶ。これぞまさしく変態である。
「ぬあっ?! あ、あんたねええぇ~調子こくのもいい加減に―――そこを動くなああぁ!」
当然、烈火の如く怒った智子が猛然と距離を詰めた。
鬼神のような勢いで迫りくる智子を前に、ハルカは怯えもせず余裕をかます。上体を後ろに倒してそのまま鮮やかな背面泳ぎ。さっきまで溺れかけていた一兵卒とは思えない。
「我が迫水家が代々海軍の家系だとお忘れですか? あの重りを外した今なら、さすがの智子中尉でも敵いませんよ」
種を明かせば話は簡単。一旦海中に身を沈めたハルカは、邪魔な足かせを取り払っていたのだ。
「くっこのおおォ、ちびっこ変態海軍のくせにィ~むわあてええぇーーっ!」
思わぬハルカの隠しスキルに旗色が悪くなり、頭に血が上った智子は限界を超えて体を酷使する。その無茶な要求に耐えかねた肉体が悲鳴をあげ、主に反乱を起こした。
「えっ?! な、なによこれっ、足ぶぁゴボゴボ…」
「はい、ス~イスイ♪ あらどうしたんですか智子中尉~? ……あれ、まさか、溺れ――――ともこちゅうううういいいぃ?!」
ハルカは色を失くして智子が沈んだ辺りに舞い戻る。深く大きく息を吸うと、勢いをつけて潜水した。
「うっ…ごほっ、かはっ……どうしたのかしら私」
意識を取り戻した智子は何度か咳き込んで周囲を見回す。果てしなく沈んでいく感覚にゾッと身震いしたのも束の間、手に触れた砂浜の感触に安堵した。大きく息を吐いた頬にポタポタと水滴が落ちてくる。
「ご、ごめんなさっ…とも、っうい……わっわた、のせい」
見上げた先には顔をグチャグチャにしたハルカ。そうしてやっと、智子は自分が溺れかけたのだと理解した。
「…ハルカが私を助けてくれたの?」
言葉の代わりにハルカの頭が縦に動く。熱くなって我を忘れたあげく部下に救われたのだと、元来生真面目は智子は恥じ入った。
軽く上体を起こせば、遠巻きに様子を窺っていた人々から歓声があげる。いつの間にやら大事になっていたらしい。
「なによ、これ?」
ズイッと差し出されたものを見て、智子は首を傾げた。神妙な面持ちのハルカが捧げるそれは、智子愛用の扶桑刀。
「どうぞ御随意に。切り捨て御免でも、無礼討ちでも、何でも甘んじてお受けいたします」
ハルカは覚悟を決めていたのか正座して背筋をしゃっきり。訓練中に悪ふざけして上官を土佐衛門にさせかけたのだから当然である。
珍しくしおらしい様子に毒気を抜かれ、智子はやれやれと溜め息をついた。
「…なーに言ってるの。あんたは私を部下殺しのトンデモウィッチにするつもり?」
「へ? で、でも智子中尉が溺れたのは私のせいですよ?! 絶対怒ってますよね? 一人軍法会議ですよねっ?」
ありえない温情措置にハルカは戸惑う。血尿を出すまでシゴきまくるとか、血反吐を吐くまでタコ殴りとか、それがこの中隊長の常なのだ。
「もう…いやーね、私はそんな小物じゃないわ。この訓練に不幸な事故は付き物なのよ」
あからさまに不審げな視線を前に智子は微笑む。神々しい慈愛のオーラさえ纏うさまは女神のよう。
「ともこちゅうういぃ…わだしのっ私の愛がついに実を結んだんですねええーーっ!」
手に持った物騒な刀を投げ出すと、感涙にむせぶハルカは愛する女性に真横から抱きつく。
その勢いで智子にかけられていたタオルが吹っ飛び、強い海風に攫われて天高く舞い上がった。途端、やんややんやとあがる喝采と口笛。
「…ふっ…うふふ……いやだわ。刀なんて使ったらバレバレじゃない。あくまでも訓練中の事故に見せかけないと。こんな瑣末なことで進退を問われたら馬鹿馬鹿しいし」
興奮冷めやらぬ空気の中、智子の唇から絶対零度の笑いがもれる。奥ゆかしさを美徳とする扶桑撫子が公衆の面前でストリーキング、これが笑わずにいられようか。
「……あの、やっぱり怒ってますよね?」
ハルカは漂ってくる妖気にじりじりと後じさる。本能が叫んでいる、今すぐ逃げろと。
「うふ、うふふ…もう、なに言ってるのハルカったら。私が怒ってるですって? ふふっ、ふふふ―――――そんな生易しいものじゃないわ」
「ひええーっ?! お助けええ~~~っ」
「うふふふ、お待ちなさあ~い♪」
脱兎の如く逃げ出したハルカを追う素っ裸の智子。
命を懸けた仁義なき追いかけっこは、延々とつらなる白い砂浜の果てまで続いた。