venus and mars
それは、定子の部屋での出来事。
ベッドの上で、正座して向かい合う定子とサーシャ。
奇妙な光景の中、話は始まった。
「何か、前にもこう言う事、しましたよね」
「扶桑の文化を教えて貰いましたね。なかなか良いと思います」
真面目な顔で頷くサーシャに、定子は控えめに意見を言った。
「正座は精神修養の為で、懲罰行為ではないのですけど……」
「乱れきった精神を正す意味では良いんじゃないですか?」
(何か違う)
定子は内心思いながら、この話題を打ちきった。
「それで、サーシャ大尉」
「ええ、話って何ですか? ……正座しながら話、と言うのもちょっとおかしいですけど」
「足、大丈夫ですか?」
「今はまだ」
サーシャの答えを聞いた後、定子はいきなり核心を突いた。
「サーシャ大尉と管野さんって、どう言う関係なんですか?」
ぎくりとするサーシャ。
「どうって、上官と部下の関係ですが、何か」
努めて冷静を装うサーシャに、定子が膝をついと詰めて迫った。
「じゃあ、どうして管野さんはサーシャ大尉の事を呼び捨てにするんですか?」
「えっ……そ、そんな事有りましたっけ?」
何時聞かれたのか、と内心記憶を辿りながらも、シラを切るサーシャ。
「この前だって……」
言いかけた定子に、サーシャは穏やかな口調で言った。
「でも、下原さんこそ、私と管野少尉の事を聞くなんて、どうしたんですか? 管野少尉の事で何か問題でも」
「そ、それは……」
とても気になる、とは流石に言えない。でも実際二人が“こそこそ”と何か示し合わせたかの様に何かしている、
その事については非常に興味がある。
いや、興味があると言うより、何をしているのか。二人は一体何を……。
定子はその事を考えると、何故か心穏やかで居られなくなる。
だからと言って、直枝、サーシャ、どちらかを特に気に入っているとか好きだとかそう言う感情は持ち合わせていない、
と定子自身は考えている。
しかし「考え」と心の奥底に眠る「感情」は全く別である事に、定子は今も気付かない。
だから、こうしてサーシャを自室に呼び込み、不躾な質問をしてしまう“不器用”な子なのだ。
唐突に考え込む定子を見て、どう答えていいものか、居心地が悪くなったサーシャは頬を少し染め、視線をベッドに落とす。
うつむき加減のまま、思いを巡らせるサーシャ。
(正座したまま何でこんな事を……下原さんは一体)
と思っていると、不意に定子が動いた。
何が起きたか理解するのに、しばし時間が掛かった。ようやく、サーシャは定子に抱きつかれている事に気付く。
(え……どうして?)
サーシャは訳が分からず、ただ呆然とした。
(またやっちゃった……)
定子はサーシャに抱きつき、ぎゅっと腕の力を込めながら、内心後悔した。
サーシャのブロンドの長髪はとても綺麗で、最前線で戦っているとは思えない程手入れがきめ細かい。
目の前で恥じらいの姿を見せるサーシャを眺めているうちに「抱きつきたい」衝動に駆られ、本来の目的を忘れて彼女に飛びついてしまったのだ。
サーシャの甘い香りを感じ、肌触りを確かめ、しっかり抱きしめる定子。
「あ、あの……下原さん?」
戸惑うサーシャ。定子は弁解するつもりで、口を開いた。
「サーシャ大尉、可愛いです。凄く」
弁解どころか、誤解を招くに余りある発言を聞き、サーシャは顔を真っ赤にして抗った。
「し、下原さん! 私、そんな軽い女じゃありません!」
ぎくりとして、逃げかけたサーシャの身体を更に強く抱きしめる定子。
「ち、違うんです! 可愛い……」
不意にドアが開いた。
ドアを開けた主は、唖然とした顔で立ちすくんだ。
定子とサーシャは同時に、ドアの方を見た。
ドアを開け、そこに居る人物。最初に話題にのぼり……と言うより今回の「会談」の切欠ともなった人物。
管野直枝その人であった。
「な、何やってん……だ?」
定子とサーシャが抱き合っている現場を見た直枝は、唾を飲み込んだ末に、ようやく言葉を発した。
「ち、違うんです管野さん!」
「管野少尉、誤解です!」
とは言うものの、離れる気配は何故か無く……直枝は呆然としたまま、微かに頷いた後、ゆっくりとドアを閉めた。
足音が早く遠ざかる。駆け出してるに違いない。
「し、下原さん……」
ようやく腕を解いた定子の前に、サーシャが憤怒の表情で立っている。
「ああ、サーシャ大尉……ごめんなさい」
「貴方の意味不明な行動のせいで、管野少尉に誤解をうっ……」
突然サーシャは崩れ落ち、もがいた。正座のし過ぎで足がしびれたのだ。
「あっ足がっ……くああっ」
足をひきつらせ、ベッドの上でもがくサーシャ。
「ああ、サーシャ大尉……慣れない正座を続けるから」
「そう言う問題じゃ……もっと大事な事がッ」
「ま、まずは足のしびれを直さないと。こう、ゆっくり足をさすると血の巡りが良くなって早く治りますから」
「ちょ、やめて……きゃああああははははははやめてー」
定子の部屋の前を通り掛かったニパとクルピンスキーは、ドアの隙間越しに定子とサーシャの行為を見た。しばしの沈黙の後、顔を見合わせる二人。
小声と小ぶりなジェスチャーで互いに“意思疎通”を試みる。
「何で、シモハラ少尉とポクルイーシキン大尉がいちゃついてるんだ?」
「さあねえ。しかし定子ちゃんは本当に凄いね。着任初日でナオちゃんを餌付けし、ジョゼちゃんを落とし……
今日は何とあの怖い熊さんまで食べようとしてる」
「食べるとか言うなって」
「ここまで来ると、ボクもちょっと自信喪失しちゃうよ。これは502に留まらず、近隣部隊とも密接に交流しろって解釈で良いのかな?」
「どんな解釈だよ。てか伯爵はそもそも交流の仕方がおかしい」
「じゃあ詳しく説明しようか?」
「……こんな所で二人に勘付かれたらどうすんだよ、行くぞ」
苦々しい顔をしながらクルピンスキーを引っ張るニパ。扱いにも慣れている様だ。
居場所が見つからず、誰も居ない食堂で一人ぼけっとお茶をすする直枝。
さっき見た光景。
あれは一体何だったのか。
あの時の情景を思い出すたびに思考が止まる。
飲みかけの湯飲みから唇が離れる。つーっと熱いお茶が太腿にかかる。
「あっつっ!」
その声を聞きつけたのか、通り掛かったジョーゼットが直枝の所にやって来た。
「どうしたんですか? 今悲鳴みたいな声が」
「な、何でもない」
「あ、お茶こぼして……太腿やけどしてるじゃないですか」
「こんなの火傷のうちに入らない」
「ちょっと待って下さいね」
ジョーゼットは慣れた様子で、魔力を発動させ、赤くはれた直枝の太腿を治癒する。
「良いって。こんなんで魔力を浪費すんな」
「すぐ終わりますから」
ジョーゼットの言う通り、すぐに治療は終わり、元の綺麗な肌に戻る。
ほんのり顔を赤めるジョーゼット。いつもの様に「発熱」している。
「座れよ」
直枝はジョーゼットを座らせると、厨房から湯飲みを持ち出し、急須からお茶を注ぎ、ジョーゼットに渡した。
「礼代わりだ。飲むと少しは落ち着く」
「ミルクティーみたいですね」
「甘くはないけどな」
「ありがとうございます」
ふーふーしながら、そっと口を付けるジョーゼット。顔色は元に戻りつつある。
直枝はそんなジョーゼットを見て、一安心する。自分の不手際でジョーゼットに要らぬ気苦労をさせてしまうのは心苦しい。
直枝は湯飲みを持ち、お茶をすする。
「あの……」
「どうした?」
「管野少尉、今日、どうかされました?」
「どうって?」
「何か顔色悪い気がしますけど」
「そんな事無い。ちょっと……」
「ちょっと、どうかしたんですか? 私で良ければ相談とか……あっごめんなさい、余計な事言って。お節介でしたね」
「いや……」
直枝は湯飲みをテーブルに置くと、だらりと突っ伏した。
「今だけは、嘘でもそう言って貰えると助かる」
「深刻そうですね。本当、私で良ければ……」
「ジョゼは、本当、優しいな」
ぽつりと、直枝は言った。
「えっ、そんな事……」
ちょっと慌てるジョゼに、直枝は聞いた。
「なあ、ジョゼ。下原ってどう思う?」
「下原さんですか? とっても優しい方で……料理も上手で……その……」
もじもじと、言葉を選ぶジョーゼット。
「そう言えば、ジョゼと下原って、下原がここに来た時から何か……」
「そっその話は無かった事に!」
「ま、いいけど」
なげやりな直枝。
「下原さん、なんか可愛いもの見ると抱きしめちゃう癖があるって、話してました」
思い出すかの様に言うジョーゼット。
「抱きつき魔か……」
(かわいけりゃ何でもいいのかよ)
直枝は内心思った。そう言えば、この前夜食をご馳走になった時も、抱きつかれた事を思い出す。
「ああ……確かにそうだな」
「管野少尉も抱きつかれた事が?」
「ああ、ちょっとな」
「良いじゃないですか」
「どうして」
「可愛いって証拠ですよ」
「はあ? 可愛いって、誰が得するんだよ」
「下原さんのお墨付きですよ?」
「そんな箔要らん」
愚痴る直枝。しかし、定子の“癖”を改めて思い出し、何となく気分が軽くなる。
次にすべき事が見えた気がする。
ジョーゼットが茶を飲み終えると、湯飲みを受け取った。
「悪いなジョゼ、付き合わせて。大体分かった」
「ほえっ? 私、何かしました?」
「いや、良いんだ。ありがとな」
直枝はそれだけ言うと、湯飲みと急須を持って厨房に向かった。
直枝が部屋に戻ると、部屋の前にはサーシャが立っていた。
「ナオ」
「サーシャ」
同時に呼び合ってしまい、微妙に気まずくなる二人。
「サーシャ」
ナオは意を決して、サーシャの元に近付くなり、ぎゅっと抱きしめる。
「ちょ、ちょっと……」
「良いから」
「その……」
「何も言うな」
直枝に言われ、サーシャは言葉が出ない。
「色々誤解してたみたいだけど、オレにはやっぱりサーシャしか居ないんだ」
「……っ」
「だから、愛してる。何度でも言う」
「いやっ、それはっ」
「? ……!?」
嫌がるサーシャを怪訝に思った直枝が振り返ると、そこには定子が立っていた。
「サーシャ大尉に、管野さん……」
その後ろから、ひょいと顔を出したのはクルピンスキー。更にその後ろでは、ニパが呆然とした様子でこちらを見ていた。
「こりゃ、またお邪魔しちゃったね」
「うわあ……」
直枝は一同を見、顔から湯気が出る程……と言うより蒸発する位の顔色で否定した。
「ちっ違う! これは違うんだ!」
「違うと言っても、ふたりでぎゅーと抱き合ってたし、おまけに告白だよ。聞いただろ、定子ちゃんに、ニパ君?」
「お、お二人ってやっぱり、その……」
「う、うわあ……」
ニヤニヤするクルピンスキー、顔を赤くする定子、ただ唖然とするニパ。
「な、何で何も言ってくれなかったんだ」
直枝がサーシャに囁くと、サーシャは直枝に怒りの眼差しを向けた。
「何も言うなと言って、挙げ句隊員の面前で告白など……」
ひそひそ声でやりあう二人をみて、ふっと笑うクルピンスキー。
「とりあえずおめでとう、と二人の門出を祝福したい気分だけど、なんかブレイクウィッチーズとしては複雑な気分だね、ニパ君?」
「うわあ……」
「『うわあ』ばっか繰り返してないで、ニパも他に何か言えよ!」
焦る直枝にも、ニパは同じ反応を繰り返すだけ。
「管野さん」
「な、なんだ下原」
「……何でもないです」
定子は顔を曇らせ、足早に立ち去った。
「ちっ違うんだ下原! 話を聞け! 待てって!」
「おっと、これは意外な展開だ。定子ちゃん、もしかして二人のどちらかに気があったとか? いやでも彼女はジョゼちゃんと……」
「と、とりあえず、行くぞ伯爵!」
ここでやっと我を取り戻したのか、ニパは直枝とサーシャから視線を逸らしたまま、まだ何か言いたげなクルピンスキーを引きずって行った。
再び、静寂に包まれる廊下。ぽつんと佇むサーシャと直枝。
「とにかく、部屋に」
直枝はサーシャの腕を掴み、抵抗も気にせず部屋に入った。
ばたんとドアを閉める。鍵を掛ける。とは言っても外から合鍵で開けられればすぐに開くのだが、念のため。
直枝は、改めてサーシャの顔を見た。
(怒っていらっしゃる)
直枝はまた力技でベッドに組み伏せられるのかと、一応自分のベッドを確認した。
「あの、サーシャ」
「これで、完全に、隊に広まってしまったわね。私達の事」
「ご、ごめんなサーシャ。オレそんなつもりじゃ……」
「『ごめんなさい』で、済むと思って?」
ずいと一歩近付くと、早業で直枝ごとベッドに倒れ込む。直枝に問い質すサーシャ。
「もう、私達後戻り出来ないのよ? 覚悟は出来ていて?」
サーシャに組み敷かれ、まるで脅迫の様な声が部屋に響く。何も言わない直枝を前に、サーシャが言葉を続けた。
「答えて、ナオ」
「オレは……」
サーシャの顔を見る。
「オレは、逃げない」
「?」
「誰からも、サーシャからも、逃げない。そして、サーシャを守る」
「守るって、どうやって? 私達揃って部隊の風紀を乱しておいて」
「それでもオレが守る! サーシャはオレが! 絶対に!」
心の叫びを聞き、くらっと来るサーシャ。
僅かに緩んだ手を、直枝が取り、優しく抱き合う格好になる。
「全部、オレのせいだ」
「どうして、全部背負い込むの」
「サーシャが好きだから」
「私だって……ナオの事」
「サーシャは仮にも戦闘隊長だろ? こんなつまらない事で処罰受けても……」
「つまらない訳無いでしょ!? 私と貴方よ?」
「……」
黙り込む直枝。
そっと、頬を重ね、温もりを感じるサーシャ。
「私ね。私達の事がばれたらって……怖いって思う事も有る。でも、貴方となら、大丈夫」
「本当か?」
「だって。これでもう、私達、公認みたいなものだし」
本当は、既に察しの良いラルやロスマンが“それとなく”黙認していたのだが、二人は知る由もない。
「でも、もし、誰かが……」
「ナオは私を好きだと言ってくれた。だから、大丈夫。私も貴方の事、好きだから」
ぽろっと涙が零れるサーシャ。指でそっとなぞり、雫を拭う直枝。
「ご、ごめん。オレのせいで、また」
「バカね。悲しい涙じゃないの」
サーシャは直枝を抱きしめると、唇を重ねた。
もう何度も繰り返してきたキス。でも今日は、何か張り詰めていた糸が切れた……束縛から解放された様な気分。
「オレ、完全に吹っ切れた。サーシャの為なら、何でもする。何だって」
「嬉しい……ねえ、ナオ?」
サーシャの求めを受け容れ、直枝は身体を絡み付かせ、そのままお互い愛し合う行為に耽る。
定子は、自室で日記に向かっていた。
でも、何を書く訳でもなく、鉛筆を置くと、日記を閉じた。
何故かは分からないが、溜め息だけが繰り返される。
(私は、管野さんみたいに誰かを「愛してる」とか、そう言う事は……)
内心呟く。自分への弁解の様に。
ただ、どうして憂鬱な気分なのかは、定子自身ですら分からなかった。
翌朝。
定子がぼんやりと目覚め、支度をして部屋を出ると、直枝が立って待っていた。
寒い廊下で腕組みをして、むすっとした表情でそこに居る。
「管野さん」
「下原、話がある」
「ええ。部屋、来ます?」
「そうだな」
直枝は定子の部屋に入った。
「それで、要件って?」
「下原、何か勘違いさせていたら、済まない」
直枝はそう言って頭を下げた。
「な、何で謝る必要が? ……私こそ、何か、二人を、その、誤解させちゃったみたいで……特にサーシャ大尉とか」
「下原の抱き癖だろ? オレから話しておく」
「……ごめんなさい」
「オレの方こそ。でだ。サーシャとは……もう噂は広まってると思うけど」
「……」
「事実だ」
あっさりと認める直枝。
「オレ達の事は、他に弁解のしようがない。……それだけだ」
「風紀乱したとかで、ロスマン曹長とラル隊長に何て言われるか」
「覚悟は出来てる」
真面目な顔で言う直枝。
「……強いんですね、管野さん」
「オレなんか、姉様に比べたら全然……サーシャと比べても全然」
「そんな事無いですよ」
凛々しい直枝。意を決したその表情は、とても素敵で……
定子は、もふっと直枝を抱きしめていた。
「……おい」
「ご、ごめんなさい。ちょっと」
「『可愛い』と、思ったのか?」
「素敵だなって。私も、管野さんみたいな人、欲しかった……」
「えっ」
「ゴメンなさい。今のは冗談。忘れて」
定子はそっと直枝を離した。
「さあ、行かないと。もうすぐ朝の朝礼ですよ?」
「そうだな。じゃ、先に行く」
「はい、どうぞ」
直枝を送り出した後、定子は、八割の安堵と二割の未練が自身の中にある事を感じる。
これで一件落着なのに……どうして?
そんな筈は無い。でも……。
定子は頭を振って、気を取り直すと、朝礼に向かった。
end