リーリヤ ~サーニャのための九つの短編~


Ⅰ.翠色の瞳

 夜の帳が降りてゆく。
 濃紺に染まる空と海。
 静謐を纏った淡い月光に照らされた魔女たちの城もまた、宵闇の青に抱かれて静寂の底にあった。
 今宵は風も波も鳴りを潜めている。穏やかな空気は慈母にも似た優しさと共に、潮の満ちては干く音だけを反響させて基地中に浸透していった。
 食堂に佇む一人の影。窓外へと向けられた双眸は翡翠の煌きを湛え、北極星の方角をただぼんやりと観つめている。食卓を彩るのはサモワールとティーカップ、それに夜食として用意されたサンドイッチ。時折、紅茶とサンドイッチを口に運ぶ姿は、物憂げながらも安らいで見える。
 カタ、と茶器が音を立てる。それに谺するように食堂の扉も小さな音を鳴らして開いた。
「あら、サーニャさん」
 食堂の隅に腰掛けたサーニャをみとめたミーナは軽く微笑み、自らの分の茶器を手にしてサーニャの食卓に腰を下ろした。
「私も頂いていいかしら?」
 紅玉の瞳を優しく揺らして語りかけるミーナに、サーニャはどうぞと頷き、ミーナのティーカップにそっと紅茶を注いだ。
 仄かに湯気が立ち昇り、甘い香りと緩やかな沈黙が二人を包み込む。
 一口、紅茶を味わってミーナは驚きを声にした。
「美味しいわね、この紅茶。サーニャさんが淹れたの?」
「はい。この紅茶、オラーシャから送ってもらったものなんです」
「オラーシャの人もよく紅茶を飲むって聞くわ。やっぱり紅茶は一息つくには最適ね」
 固まった身体を解すように、ミーナは背筋を伸ばした。
「こんな遅くまでお仕事だったんですか?」
 サーニャの問いかけに、ミーナは静かに溜息を吐いて窓の外に目を向ける。
「今日はちょっと書類の数が多くてね。それに昼間は出撃もあったでしょ。だから余計に手間取っちゃって。もう嫌になっちゃうわ……」
「あの……私は何もお手伝い出来ることがなくて」
 思わず愚痴を零してしまっていたミーナは慌てて視線を戻した。
「ごめんなさい。そういうつもりじゃなかったのよ。サーニャさんにはいつも夜間哨戒をしてもらっているじゃない。それだけでもう充分すぎるくらい助かっているわ。だから私のことは気にしなくても」
「いえ。私の方こそいつもいつも優しくしてもらって……、本当に、感謝しています。だから……」
 そう云ってサーニャはミーナの背後に回って、
「だから、少しでも何か出来ればと思って」
 せめて、今日一日分の疲労が癒えるようにと想いを込めて、肩を叩いた。
 潮の満ちては干く音と、トントントンと肩を叩く音と、サーニャが奏でる小さな唄と、ミーナが合わせて歌う声。
 暖かな音の波が幾重にも折り重なって広がっていく空間は、刹那の平和と至福の時間であった。
「ありがとう、サーニャさん。そろそろ……」
 茫漠とした夜の闇に吸い寄せられるかのように、舞台は再び戦場へと戻った。
「一つ訊いていいかしら? サーニャさんが、いつも独りで夜の空を飛べるのは……」
 それでもいつかの終わりを夢見て、決意の色を瞳に宿して、サーニャは答えた。
「守りたいんです。みんなと、この世界を……」
 願いを乗せた翼は、例え孤独な夜空であっても、月光に輝いて力強く羽ばたけるのだろう。
 それこそが、儚く見えた彼女の本当の姿で――。
「今夜も夜間哨戒、お願いするわね。無事に帰ってくるのよ」
「はい。いってきます!」

Ⅱ.黒猫の尻尾

 黎明の光が空に蒼さを、海に碧さを、夜の闇から取り戻す頃。
 水平線の彼方よりエンジン音を響かせて魔女たちの城へと帰ってくる影がある。
 小さな欠伸をしながら滑走路へと進入してきたサーニャがふと基地の庭に視線を落とすと、そこに植えられた樹木の枝の上で寝ている少女の姿が映った。
「今日はあんなところで寝てる。落ちたり、しないのかな……」
 いつも変な場所で寝起きしているあの少女を夜間哨戒帰りに見つけることが、サーニャの密かな楽しみであった。

 その日、サーニャはいつもより早い時間に起床した。
 早いと言っても正午を少しばかり過ぎたところ。昇りきった太陽が燦々と日光を降り注いでいる。
 何の気なしに外の風を浴びようと庭へ出たサーニャは、そこであの少女と出会った。
「何してるの? サーニャン?」
 緑の黒髪を風に靡かせ何処からとも無く現れたルッキーニに、サーニャは少し驚きの声を上げた。
「わ、ごめん。サーニャン。おどかすつもりはなかったんだけど……。こんな時間に起きてるなんて珍しいなぁって」
「ちょっと早く目が覚めちゃって。それで散歩でもしようと思ったの」
「そか。でもまだ陽射しがきつくない? こっち来なよ」
 そう云うとルッキーニはサーニャの手を引き、木陰の下へと誘った。
「サーニャン陽射しに弱いでしょ。ここならだいじょーぶ」
「うん。ありがとう、ルッキーニちゃん」
 穏やかな潮風と波の声に耳を傾けながら見上げたその木は、今朝方サーニャがルッキーニを見つけた木であった。
「ルッキーニちゃん。今日はこの木の上で寝てたでしょ」
「うん! そうだよ! ここもね~、あたしの秘密基地の一つなんだ。あ、バレちゃったら秘密じゃないかぁ。でもでも、他にもたーーーくさんの秘密基地があるんだよ!」
「うん。でも、お外で寝てて大丈夫なの? 風邪ひいたりとか。それに枝から落っこちたりしたら」
「だいじょーぶ! あたしはねぇ、あれがあればどんなところでも眠れるんだ」
 そう云ってルッキーニが指を差した先に、物干し竿に掛けられて風に揺れているロマーニャカラーのブランケットがあった。
 使い古されたブランケット。それにはどれほどの想いが込められているのだろう。
 祖国を想い、家族を想い、仲間を想い。戦いに身を投じた少女の気高くも美しい想いが……。
 サーニャとルッキーニはこの部隊で最も年齢の低い二人である。まだまだ幼い少女が戦わねばならない世界。時代の逆風に曝されながらも憾むことなく拒むことなく、力強く生きている。
 それが、暖かな昼下がりに木陰で談笑する彼女たちの境遇とは思えない。それくらいに今だけは、平和な一時であった。
「そうだ! 特別にサーニャンをあたしの秘密基地に案内してあげよう。ちょうど遊び相手が欲しかったところなんだ。さ、行こ!」
 普段は接する機会の少ない二人だが、本当はこうやって遊び回っているのが一番なのだろう。そしてサーニャも心の何処かでそう思っていたに違いない。だからこそ最高の笑顔で、
「うん! よろしくね、ルッキーニちゃん」
 差し出されたその手を握り返し、楽しげに駆けていった。
 束の間の平和はまだ終わらない。それは彼女たちが笑顔で在り続ける限り、いつでもどこにでも咲き誇るものなのだ。

Ⅲ.真雪の肌

 サウナの中に珍しい組み合わせの二人がいた。
 いつもかけている眼鏡を外し水気を吸ってモサモサになった金髪を所在無さそうに弄っている少女と、白樺の葉を手に持ちどこか眠そうな瞳を虚空に彷徨わせている灰色の髪の少女。二人とも同じような体型で引き締まった身体つきに、湯気にも融けてしまいそうな白い肌をしている。時折、灰色の髪の少女が焼けた石に水を打ち掛け、シューっと蒸気の立ち込める音が響く。白に沈んでゆく部屋。少しばかり気不味い雰囲気に耐えかねたのか、金髪の少女が口を開いた。
「今日は一人なんですのね、サーニャさん」
 何処か刺のあるようにも聞こえるペリーヌの声だが、サーニャは気にすることなく答えた。
「はい。特に理由はないんですけど。ペリーヌさんこそ一人でサウナなんて」
 珍しいですね? と言い切る前にペリーヌが言葉を返した。
「私の方こそ特に理由はありませんわ。なんとなく。そう、なんとなくですわ」
「はぁ、そうなんですか」
 もう一度、サーニャは焼き石に水を浴びせる。サッと曇った視界に目を凝らすように、ペリーヌはサーニャを覗き込んだ。
 眼鏡をかけていないせいか、ジトッとサーニャを見つめる琥珀の瞳。目を細めたその表情に、はっとしてサーニャは問いかける。
「ペリーヌさん……。どう、したんですか?」
「どうってことありませんわ。その……、サーニャさんって本当に肌が白いですわね……って、思っただけでしてよ」
 ふっと顔を赤く染めてペリーヌは視線を外しながらそう云った。
 サーニャもまた照れたように顔を背けてペリーヌに言葉を返す。
「あ……、同じ事、芳佳ちゃんによく言われます。それに、ペリーヌさんだって、綺麗な白い肌ですよ」
 白皙の美少女は共に頬を紅に染め、お互いの身体をチラリと見つめ合った。
「宮藤さんが? 全く、あの豆狸は……、相変わらず破廉恥な」
「でも、ペリーヌさんも今同じ事を」
「わ、私は純粋な褒め言葉として言ったまでですわ! あの豆狸とは違って邪な感情など」
「芳佳ちゃんだって! そんな気持ちじゃ、ないと思います……」
「そ、そうですの。サーニャさんがそうおっしゃるのなら、いいんですけれど」
 珍しく声を荒げたサーニャ。
 ――意外と大きな声も出せるんですのね。と、驚き半分、感心半分といった表情を見せるペリーヌ。
 沈黙が場を支配するより速く、ペリーヌは再び話の口火を切った。
 日頃はほとんど会話をする機会のない二人だったが、いざ言葉を交わしてみると案外話が進むものである。その内容はペリーヌが特定の人物について愚痴を零して、サーニャが適当に意見を述べるといったものであったが。
「サーニャさん相手ですと、話しやすいですわね」
 しばらく会話が進んだあと、不意にペリーヌはそう云った。
「え、そんなこと……」
「いいえ。この私がそう言うのですから間違いないですわ。サーニャさんは聞き上手ですわよ」
「そんなことないです。私がただ、話すのが苦手なだけで」
「そう。なら、そういうことでいいですわ。でも、私はあなたとおしゃべりできて……、その、まぁまぁ楽しいですわ、よ」
 微妙な素直さを見せるペリーヌに、サーニャは明るく微笑んで云った。
「私も、ペリーヌさんとお話しできて嬉しいです」
 少し不器用なところのある二人だが、お互いに微笑み合えたなら、もう気不味い空気など何処にもない。
 今までのことだって、湯気のような幻想だったのだ。
「あなたも変わりましたわね」
「それはたぶん、ペリーヌさんも」
 それが誰の影響かは言葉にしないが、思い浮かべるのはきっと同じ人物で――。

Ⅳ.踊る鍵盤

 戦いの中にあっても心の休まる瞬間。
 それは誰かの話し相手になっているときに他ならない。
 自然と溢れる小さな笑顔と、気付かない程のささやかな幸福。
 抱えた痛みの数だけ、それ以上の笑みがあってこそ、少女たちは幾度も空へと帰ってゆけるのだ。
 ここにもまたそんな少女たちがいる。
 談話室のソファーに腰を下ろし、他愛もない話に興じているのはエーリカとサーニャの二人だ。
 今日は既に三時間、この状態から動いていない。端から見てもありありと判る二人だけの世界。
 永遠の相にも届きそうなこの刹那、それを彩る魔法はきっと笑顔という名で出来ている。
「そういえばさぁ。こないだ久しぶりにサウナに入ったんだけど、やっぱり私には無理だったよ。暑いのは苦手だなぁ。サーニャンは、よくあんな暑いところに長いこと入っていられるね」
「慣れていますから。ハルトマンさんも、何回も入ったら慣れると思います」
「ええぇ~、ムリムリ、絶対無理~。私はもうあれで一生分入ったの。だから無理」
「でも、せっかくだから今度一緒に入りたいなぁ、って思ったんですけど」
「うぇぇ、サーニャンおーぼー……」
「そ、そんなつもりじゃ」
「にししし、冗談だよん」
「だったら、今度是非サウナに」
「そこは冗談じゃなくって……。ええと、なんかよくわかんなくなってきたや。サーニャンって案外頑固だね」
「そ、そうですか?」
「普段はあまり口に出さないだけでさ、ちゃんと自分の言いたいことは持ってるよね。悪いことじゃないと思うよ。それくらいが普通でしょ。まぁ、サーニャンはもっといろんな人に対しても積極的になれたらいいけどね」
 突然真面目な話を投げるエーリカ。日頃の振る舞いからは想像出来ないその姿こそが、彼女の本当の姿なのかもしれない。
「ハルトマンさんって、みんなのことよく見てますよね。たぶん、この部隊で誰よりも」
「そう思う? まぁ、危なっかしい人が多いからねぇ。私が言うのもなんだけどさ」
 そう云ってからからと笑うエーリカ。つられてサーニャもくすくすと笑った。
「そうだ! サーニャン、ピアノ弾いてよ。私が適当に歌うからさ!」
 そんな提案をしたエーリカは、サーニャをピアノ椅子に座らせ、意気揚々と歌い出した。
「もしも会えたら~、あなたを見~たら~♪」
「その歌……」
 エーリカの歌に聴き覚えがあるのか、サーニャは驚きを声にした。
「宮藤が歌ってたんだ。良い歌だったから覚えちゃった」
「私も、その歌を芳佳ちゃんに教えてもらいました。大切な、会いたい人のことを歌った歌だって」
 大切な人。
 会いたい人。
 遥か遠くの地へと想いを馳せるように、サーニャはピアノをじっと見つめる。
「へー、そういう歌だったんだ。ちょっと切ない気もするけど、だからこそ歌うんだよね。会いたいって気持ちをさ」
 悲しいことも、辛いことも、思い出しそうになる時にこそ歌うためにある歌なのだと。
「サーニャンもそう思って歌い続けてるんだよね。いつか、届くといいね」
 天使の笑顔を見せるエーリカに応えるように、サーニャはそっと指を踊らせる。
 即興のピアノ伴奏で歌う二人だけの小さな演奏会。
 それは遠く離れた空の下にまでも響きそうなほどの、願いと共に――。

Ⅴ.雨の日の夢

 しとしとと降り続く雨。
 ここ数日は崩れがちの天候が続き、湿った空気が基地中を取り巻いている。
 窓に寄りかかって雨を眺めている少女が一人。
 何処か物憂げな瞳は、窓の外の風景ではなく、遠い過去の情景を見つめているかのようだった。
 それは幼い日のとても大切な想い出で……。鮮明に色褪せていった記憶を、もう幾度色を重ねたかしれない記憶を、未来へと繋げるように思い出してはそっとしまい込んだ。
 カツカツカツ、と反響する靴音に気付いたサーニャは窓から目を離した。
「雨は、嫌いか?」
 いつの間にか隣に立っていた坂本はそう問いかけた。
 どう答えたものかと少し思案して、サーニャは小さく首を振る。
「そうか。いやな、少し寂しそうな表情をしているように見えたものでな。どうかしたのだろうかと思ったんだ」
 ――部下の精神状態を気遣うのも上官の務めだからな。と言いながらも、坂本は優しい表情を見せる。
 普段の坂本からは想像もつかないような柔らかな笑みに、サーニャは少し身を寄せて口を開いた。
「小さい頃に、今日みたいに雨が振り続いていた日があったんです。その時も私はずっと窓の外を眺めていました。雨粒の音を数えたりして。そしたらお父さまがそれを聴いて唄を作ってくれたんです。ピアノで、私のためだけに、私の唄を」
 窓枠で切り取られた風景は、サーニャの心象を映す鏡のようでもあった。
「確か、サーニャのご家族はオラーシャの東の方へ避難されていると聞いたが」
「はい。でも、もう会えないわけじゃないですし、無事でいることも確認しています。今でも雨を眺めていると昔のことを思い出しますけど、悲しいから、寂しいからじゃなくて……。私とお父さま、お母さまを繋いでくれる、とても大切な想い出だからです」
 雨粒が弾けては消える音が途切れることなく繰り返される。まるで壊れたレコードが円盤を逆転させたかのように。
 雑音の如く降りしきる雨。幻想を摑もうと伸ばした手は、冷たい窓硝子に阻まれた。
「でも……やっぱり思い出してしまうと、会いたくなってしまいます……」
 本当は今すぐにでも、ウラルの山の向こう側へ飛んでいきたい。いつだって飛べる翼はあるのに飛んでいけない。
 籠の中の小鳥が自由な空を夢見て歌うように、サーニャが大切な唄を口ずさもうとしたその時、ガラクタを落っことしたような面妖な音が背後から響き渡った。
 驚愕に目を見開いて振り返ると、ピアノに指をかけ同じように驚いた表情のまま固まった坂本の姿があった。
「あはははは……。いやぁ、なんだ。サーニャを、元気づけようと思ってな」
 弾けもしないピアノを叩いてみたら、予想以上に強い音が出て驚いたのだろう。坂本は苦笑しつつも続けた。
「故郷を離れ、家族と離れ、辛い思いをする時もあるだろうがな。そういう時はもっと頼ってくれていいんだぞ? 先刻みたいに話してくれていいんだ。私たちだって、家族なんだからな」
 それまでは怖い上官という印象が強かった坂本に対して、サーニャはようやく明るい笑顔を見せ、こう云った。
「坂本少佐って、お父さまみたい――」
「お、おと……」
「あ、ごめんなさい……」
 思わぬ言葉に面食らった坂本だったが、少しはそう言われる自覚があるのだろう、いつもの豪放さで闊達に笑った。
「はっはっはっはっ! なに、気にすることはない。それにしても、お父さまか……」
 慈しむようにサーニャを見つめるその瞳は、大空を舞う鷲のような透き通った温かさに満ちていた。
「聴かせてくれないか? サーニャの唄を」
 雑音混じりに聴こえた雨も、今では心の隙間に滲み入る和声となった。
 それはサーニャが歌う唄の、優しい伴奏のようでもあった。

Ⅵ.天使の歌声

 魔女たちの寝静まった城の一室。
 薄明かりの中で、なにやら黙々と作業を続ける少女の影があった。
 彼女が弄っているのは、基地の片隅で朽ち果てていた古ぼけたラジオである。ここ一週間ほどかけて修理した甲斐があって、なんとか雑音を吐き出すようにはなった。だが未だに本来の役目を果たしてはくれない。
 流れ続ける雑音が夜の深さを物語っている。
 ――今夜はここまでかぁ。と諦めかけたその時、雑音の向こうに何かが光った。
 捕らえたその声を逃さないように慎重に繊細な調整を続ける。そして漸く辿り着いた答えは――。
「この唄声は、もしかして……」

 夜間哨戒前の小休止。今日もサーニャは一人食堂で紅茶を嗜んでいる。
 消灯後の基地内を照らす仄暗い灯りに調和したサーニャの姿は、より一層その白さが際立っている。
 澄み渡る静けさの底で、サーニャの耳は遠くから聞こえる足音を捉えた。真っ直ぐに食堂へ向かってくるその気配。こんな時間に誰だろう、と思い巡らせているうちに、扉が押し開かれ意外な客人が姿を見せた。
「よっ! サーニャ」
 シャーリーは軽やかな口調で挨拶を投げかけ、サーニャの食卓に腰を下ろした。明らかにサーニャを訪ねて食堂へやってきた風である。
「何かご用ですか? シャーリーさん」
 機先を制したサーニャがシャーリーに問いかける。
「おっ、察しがいいねぇ。実は、サーニャに感謝と謝罪を言いたくてさ」
 シャーリーの思わぬ発言にサーニャは目を瞬かせる。なにしろサーニャには、何かシャーリーから感謝される、そればかりか謝罪されるような覚えなどなかったからだ。
 どういうわけだろうかと思案するサーニャに、シャーリーはある物を取り出して見せる。
「これは……、ラジオですか?」
 いかにも古めかしいその機械は、基地の談話室に設けられているラジオより幾世代か旧式の物のようだ。
「そう、ラジオだよ。ちょっと前に捨てられていたのを見つけてさ、なんかもったいないから修理してみようかと思ってね。最初はなかなか上手くいかなかったんだけど、遂に、昨日の晩に電波を捉えることができたんだ。そしたらびっくり、何が聴こえてきたと思う?」
 まるで誘導尋問のようなシャーリーの語り口に、サーニャはなんとなくだが事情を察する。
「もしかして、私の……」
 昨夜も、サーニャは夜間哨戒中に自分の唄を口ずさんでいた。それがシャーリーのラジオにも届いていたのだ。
 軽く笑ってシャーリーは首肯する。
「たまたま、こいつが受信しちゃってさ。私もサーニャの唄を聴くのは初めてだったけど、すぐに判ったよ。だからまずは感謝を、ね。素晴らしい唄をありがとう」
 まさかこんな風に聴かれていたとは。考えてもみなかったことに、サーニャは照れたように赤面する。
「それと、勝手に聴いちゃってごめんな。このことはまぁ、秘密にするからさ」
 そして軽く頭を下げるシャーリー。こういうところは意外と律儀な性格である。
「そんな、謝るほどのことじゃないですよ。それに、唄を褒めてもらえて、嬉しかったです……」
 柔らかな微笑みを見せるサーニャに、シャーリーもほっと息をつく。
 自分の唄を誰かに聴いてもらうのは、まだまだ恥ずかしいサーニャではあったが、それも悪くはないと思えたのだ。この唄は、誰かの為に歌われた唄。ならばサーニャも誰かの為に……。
「よかったらまた、いつでも聴いて下さい」
 音楽が自身の夢であったことを、思い出すようにサーニャは云った。
「サーニャがそう言うなら、お言葉に甘えようかな。まぁ、他の人には言わないでおくよ」
 ――誰かさんの耳に入ったらうるさそうだしさ。と、陽気に笑ってシャーリーは立ち上がる。
「じゃ、私はもうそろそろ寝るとするよ。夜間哨戒、頑張って」
「はい。おやすみなさい、シャーリーさん」
 ラジオを抱えて部屋に戻るシャーリーを見送って、サーニャは任務へと走る。
 今夜の唄はどんな人に届くのだろう、と少しだけ胸を弾ませながら――。

Ⅶ.夜の眷属

 夜の空は別世界である。
 濃紺の闇に支配された空。
 境界線がひどく曖昧な空。
 初めて夜の空を飛ぶ者は、恐怖心から足が竦んでしまうのも無理はないだろう。
 夜間飛行に慣れるには、実際に夜の空を飛んでみるしかない。
 訓練の一環として、今夜の夜間哨戒はゲルトルート・バルクホルン大尉が行なっている。サーニャの僚機として……。
「夜の空は怖くはないか?」
 不意に、バルクホルンはサーニャにそう訊ねた。
 一呼吸置いて、サーニャが返答するより早く、バルクホルンは言葉を継いだ。
「我が祖国カールスラントに来ても、ナイトウィッチとしてエースを張れるだけのお前に対して、愚問だったな。すまない」
「いえ、私だって……」
 遠く、夜の果てを探すように視線を彷徨わせるサーニャ。月明かりだけが、ぼんやりと世界を映している。
「私だって、最初は怖かったです。今でも月明かりのない独りの夜は、不安になることもあります」
 それでも、今この瞬間は独りではないと語りかけるかのように、サーニャはバルクホルンに視線を向ける。
「それにバルクホルン大尉ほどの実力があれば、夜の空だって……」
「いや、そんなことはないぞ。昼と夜は別世界だ。それを一番よく分かっているのは、サーニャ自身じゃないか?」
 サーニャは決して自らの技倆に自信がないわけではない。それを誇示するようなことがないだけで。それでもカールスラントの、ひいては世界のトップエースたるバルクホルンに、認められていることは嬉しかったのだろう、赤く染まる頬が月光に映える。
 沈黙の肯定を返すサーニャにバルクホルンは云った。
「空の上では階級は関係ない。最も敵を撃墜した者が上官だ」
 事実上の上官の意図を掴みかねて目を瞬かせるサーニャに、バルクホルンは続けた。
「これはJG52時代の私の上官の受け売りだがな。まぁそういうことだ。私が昼の空でどれだけの撃墜数を上げているかは、今は不問だ。夜の空では、私はサーニャの部下に過ぎない。この空は、サーニャ、お前の空だ」
 エースとしての風格、その力強い言葉の煌めきは、月の光よりも明るくサーニャの空を照らし出した。
 孤独な任務であることが多い夜間哨戒。それも全ては仲間のために。どこかで必ず繋がっている、この空は独りじゃない。
「バルクホルン大尉と夜の空を飛べて、嬉しいです……」
 そっと囁いたサーニャの心情は、さっとバルクホルンを赤く染めた。
「そ、そうか……」
「以前、芳佳ちゃんが夜間哨戒に付いて来ていたときにも思ったことです。誰かと一緒に飛ぶのは、やっぱり独りの空とは違った色が見えて、楽しいです」
「あぁ。私も、そう思う。またサーニャと一緒に夜間哨戒の任に就くのも吝かではないぞ」
「はい。その時は、よろしくお願いします」
 曇りなき笑顔は夜空に咲いた一輪の白き百合の花の如く。見惚れたバルクホルンは照れを隠すように、小さく呟いた。
「し、仕方ないな。かわいい妹の頼みだから、な……」
「え、何か言いましたか?」
「い、いや。なんでもない。なんでもないぞ!」
「でも今、妹って聞こえたような」
「そ、それはだな。妹のように慕っているという意味でだな。あくまで比喩だぞ! 例え話だ!」
 慌てて弁解するバルクホルンに、サーニャは苦笑しながら云った。
「バルクホルン大尉は、芳佳ちゃんに対してもそんな感じですよね。私なんかより」
「な、なぜそこで宮藤が出てくるんだ。いや、私はそんなに、分かりやすいか……?」
「はい」
「サーニャ……。案外、きっぱり言うときは厳しいな……」
 項垂れるバルクホルンに、サーニャは取り繕うように声をかける。
「わ、私も芳佳ちゃんのこと好きですよ!」
 その言葉は、他の隊員たちの想いの代弁として語られたに過ぎない。だが、サーニャ自身にもその本心は何処にあるのか、判然としなかった。
「そうだな。あいつは、ときに無茶をやらかすが……。憎めないやつだ」
 本当に、サーニャの気持ちはそれだけなのか。
 仲間として、親友として。それとも……?
 とりあえず、この話はここまでで終わった。
 遠く夜の彼方では、黎明の色が忍び寄って来ていた……。

Ⅷ.月下の魔女

「サーニャさん……」
 夜という名の衣装に身を包み、滑走路に佇む一人の魔女。発した声は凛として、張り詰めた空隙を撃ち抜いた。
 曇天の暗幕に閉ざされた今宵の空は異様なほどに暗く、音一つなく、まるで異界に迷い込んだかのようであった。
 魔導針の微かな灯りと確かな導きを頼りにサーニャは視る。夜目の効くサーニャでさえもほとんど目視できないほどの闇の向こう。黙視する瞳はサーニャを的確に捉えている。
 滑走路という名の舞台上、キャストは揃った。
 刹那、幕が上がるかのように雲が裂ける。
 闇に穿たれた満月が煌々と二人を照らし出す。
 現実感の喪失した情景。
 ボーイズ対戦車ライフルのシルエットが、重く鈍く圧し潰すように伸びて来る。
 ストライカーを装着していないその姿が、不気味なほどアンバランスに感じられた。
「サーニャさん」
 リーネはもう一度、夜間哨戒へ飛び立とうとする仲間を押し留めるように云った。
「ちょっと、お話ししましょう。芳佳ちゃんのことで……」
 ――芳佳ちゃん。その一言が、いとも簡単にサーニャの翼を剥ぎ取った。
 激情を押し込めたリーネの表情。大海にも似た深さを湛えた蒼玉の瞳は、夜を纏って冥く沈んでいる。
 氷ったように冷たい月だけが、二人の行く末を静かに見つめていた。

 不思議な娘だというのが、サーニャの宮藤に対する第一印象であった。これは他の隊員にとっても同じことであろう。
 軍人としての教育を全く受けていない宮藤が、いきなりエースの集まる統合戦闘航空団に配属される。それだけでも充分にイレギュラーなことであった。
 そんな宮藤の存在が、501にとっての新しい風となった。
 足りなかった最後の欠片として、皆を導く灯りとなった。
 気付けば宮藤はいつでも輪の中心にいる。何事にも一所懸命で、誰とでも打ち解けられる。
 サーニャは宮藤のことが、少しだけ羨ましかったのかもしれない。
 そして、あの誕生日の夜の空。
 確かに二人の心は触れ合った。
 二人は同じ場所に立っていた。
 そのことが、サーニャには嬉しかったのだ。

 それからの日々で、二人の距離は確かに近づいていった。お互いに友と呼べる存在として。それはサーニャにとっても疑う余地のないことであった。ただそれは、誰もが宮藤に惹かれるように、サーニャもその一部なのだと。
 
 ――本当に、私の気持ちはそれだけなのか……?

 サーニャの気持ちに陰が差したとき、まるでそれを見透かしたかのように、リーネが眼前に立ちはだかった。
 月光によって分かたれた夜の海を前に立つ二人は、ただ茫漠とした闇を見つめている。
 夜の空以上に底知れない夜の海。時折、月が雲に隠されて一層その闇を深くする。
 何も言わないリーネに対して、サーニャはおずおずと口を開いた。
「あの、リーネさん……。お話ってなんでしょうか……? あの、何もないんだったら、私はもう夜間哨戒に」
「芳佳ちゃんは、あなたのことが好きなの」
 一瞬の言葉の閃光。リーネが放った透明な弾丸は、サーニャの心の奥深くに根差した疑惑の真中を、精確に撃ち抜いた。
「………………」
 突然の告白にサーニャは驚愕して動けない。リーネはもう一度、容赦なく引鉄を引く。
「芳佳ちゃんは、サーニャさん、あなたのことが――」
「それはっ……!」
 ようやく声を発することのできたサーニャはリーネに問い質す。
「私だけじゃなくて……他のみんなだって、同じように――」
 皆は宮藤のことが好きで、宮藤は皆のことが好き。仲間として、親友として……。
 そう問うたサーニャに、リーネは厳然として否定を返した。
「違うわ。芳佳ちゃんは、あなたのことを他のみんなと同じようには見ていない。もっと特別な存在として」
「どうして! どうしてリーネさんが、そんなことを……」
 明白な事実を告げるかのようなリーネの口調に、サーニャは困惑を隠せない。
 実際にリーネの発言が真実だとして、何故リーネはそれをサーニャに伝えるのか。
 雲に隠れていた月が再びその姿を現し、蒼白の光線が二人を対立させる。
 澱んだ静寂を切り裂くように、一陣の風が吹き抜けた。
「あなたは芳佳ちゃんのことをどう思っているの?」
 決意の潜んだ声色で、リーネはサーニャに問いかける。
 そして答えを返せないサーニャを待つことなく、リーネは毅然として宣言した。
「私は、芳佳ちゃんのことが好き!」
 これ以上留められるわけにはいかないと、サーニャは夜間哨戒へと飛び立つ。まるで現実から逃げ出すかのように。
 その背中に向けて、リーネは更に悲愴な叫びを撃ち放った。
「あなたなんかに、芳佳ちゃんは絶対に渡さない!!!」
 その言葉は漆黒の闇に吸い取られて反響することなく消えていった。
 だがサーニャの耳には消えることなく、いつまでも残留した。
 長い夜は、まだ始まったばかり――。

Ⅸ.白百合の花

「どうしたの? サーニャちゃん?」
 不意に振り向いた宮藤が真っ直ぐな瞳でサーニャに問いかける。
 おそらくサーニャは無意識の内に宮藤をじっと見つめていたのだろう。
「ううん。なんでもないわ」
 少しだけ気不味く目線を外しながらもサーニャは簡潔に返答する。
 ここ数日、サーニャの宮藤に対する態度に不自然な点が少なからず見受けられた。宮藤はそれに気付いているのか、いないのか。表面上はいつも通りに見える気の置けなさで宮藤はサーニャに云った。
「そうだ、サーニャちゃん。今から一緒にお風呂に入らない?」
 唐突な宮藤の提案にサーニャは言葉を失う。そして言われるがまま、宮藤に手を引かれて風呂に入る運びとなった。

 小さな二人にとって大浴場はあまりにも広い。
 サウナに入ることが多いサーニャにとっては、馴染みの薄い場所でもある。
 上半身にバスタオルを巻いて入ろうとするサーニャに、宮藤はさりげなく注意した。
「サーニャちゃん、バスタオルなんかつけなくても大丈夫だよ。どうせ二人だけなんだし」
「え、でも……」
「それにタオルなんて巻いてたら身体洗えないでしょ」
 さっとタオルを引き剥がし、宮藤はサーニャの手を取った。
「お風呂に入るときは、まずは身体を洗ってから。サーニャちゃん、背中流してあげるよ」
 為されるがままに椅子に腰を下ろしたサーニャ。シャワーが熱い湯を二人に浴びせる。
 宮藤がサーニャの白い背中に手を伸ばす。一糸纏わぬ姿で、こんなにも近い距離。サーニャの顔が赤く染まるのは、湯の熱によるものだけではないだろう。幸いにして宮藤からはサーニャの表情は見えない。そしてサーニャからも、宮藤の表情は見えない。背中越しに鼓動の揺らめきが伝わってしまうのではないだろうか、と不安になるサーニャだが、その背中に触れた宮藤の手も心なしか震えているように感じられた。
 生きている証の響きがぎこちなく混ざり合う。サーニャが想像する宮藤の表情も、風呂の熱以上に赤く染まっていた。
「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」
 藪から棒に囁かれた言葉。その意味がサーニャには解らない。沈黙するサーニャに宮藤は続けて云った。
「この言葉は扶桑の諺なんだよ。美しい女性を形容する言葉。サーニャちゃんにね、ぴったりだと思うの」
 リーリヤ。
 百合の花。
 サーニャの通称として語られることもある、その花の名前。
 壊れやすい花を包み込むような愛おしさで、サーニャに触れる宮藤の掌は、融けてしまいそうなほどに火照っている。
 そこから伝わる溢れんばかりの感情は、サーニャの心の深くに兆した傷痕にまで、確かに届いた。
 続く言葉を待つように、サーニャは息を潜める。
 それに呼応するように、宮藤は口を開いた。

「あと扶桑ではね、百合の花って女性同士の愛の象徴でもあるんだよ」
 そう云った宮藤はそっとサーニャを抱きしめる。
 背中に触れた小さな胸の感触と大きな鼓動。
 熱すぎる吐息に乗せて、サーニャの耳元で宮藤はその心情の全てを打ち明けた。

「わたしは、サーニャちゃんのことが好き――」

 その刹那、サーニャを取り巻いた情動は、過去から未来へ、地から天へ、世界を統べる一切の原理を超越した高みを廻り、真理の水面へと漂着した。
 永遠にも似た泡沫の真中。
 一瞬の交錯の後、二人の心はすれ違う。
 視線を交わすこともなく、言葉を交わすこともなく、お互いにそれが判ってしまった。
 だからこそ宮藤は、静かにその身を引き離す。
「ごめんなさい、芳佳ちゃん。私は、あなたの気持ちには応えられないわ」
 サーニャがようやくその身を翻し、二人は真っ直ぐ見つめ合う。
 不思議と二人の表情には、微笑みが宿っていた。告白の傷痕として、宮藤の目元に一雫の涙を残して。
 このところサーニャを悩ませていた問題も、今では綺麗になくなっていた。
 どんな形であれ、サーニャが宮藤に好意を抱いていることには変わりはない。
 それは仲間として、かけがえのない友として。
 そしてサーニャは、自らの本当の心の在り処にも気付いたのだ。
 宮藤よりも、もっと近き場所にいる、その存在者に――。
「そうかぁ……。サーニャちゃんには、もう既に還る場所があるんだね」
「うん。きっと、そうみたい――」
 ――ちょっと悔しいなぁ。と、涙を拭いながら宮藤は拗ねたように呟く。
 ごめんなさい、とサーニャはもう一度心の中で付け足し、自身を確かめるように瞳を閉じた。
 遥か遠くの過去からそうであったかのような幻想が実体をもって立ち現れる時、人は愛の理を知るのだろう。
 サーニャを満たした大切な想いは、未来を視つめるその人の下へと……。
 手を差し伸べるその姿が、自らを導く灯火となるのを、サーニャは確かに観つめていた――。


Ⅹ...

「おかえり、サーニャ」
「ただいま、―――」


   fin...


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